「カープ激励の夕べ」への出席ボイコットが呼んだ大騒動。歯車が狂い始めた…【高橋慶彦 連載#10】
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「カープ激励の夕べ」への出席ボイコットが呼んだ大騒動。歯車が狂い始めた…【高橋慶彦 連載#10】

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1986年「2年ぶりV」の翌年開幕直前に大騒動

 阿南準郎監督の1年目にあたる1986年、カープは巨人とのシ烈なV争いを制して、2年ぶり5度目のリーグ優勝を達成した。西武との日本シリーズは初戦引き分けからカープが3連勝したのに、4連敗で逆転負け。シリーズ終了後には「ミスター赤ヘル」こと山本浩二さんが引退した。それまで阿南さんに「ニューリーダー」と呼ばれていた俺は「リーダー」としての働きを期待されるようになっていた。

山本浩二にビールを浴びせる高橋慶彦(86年10月、品川プリンスH)

㊤山本浩二にビールを浴びせる高橋、㊦左から阿南準郎監督、高橋、山本浩二、衣笠祥雄(86年10月、品川プリンスホテル)

祝勝会、左から阿南準郎監督、高橋慶彦、山本浩二、衣笠祥雄(86年10月、品川プリンスH)

 そんな矢先だった。87年の開幕直前のことだ。既にオープン戦は全日程を終了していて、カープは本拠地の広島市民球場で全体練習。その時に、かねて懸案事項となっていたことを練習終わりのベンチ前で野崎泰一球団代表と上土井勝利球団部長に問い詰めた。恒例行事となっていた地元テレビ局主催の「カープ激励の夕べ」の開催時期についてだ。

 俺の言い分は「開幕前の最も大事な時期に、なぜこのような行事を入れるのか」というもの。イベント自体を反対していたのではなく「いくらなんでも開幕2日前というのは」と訴えたのだ。もちろん俺一人の意見じゃない。それ以前にも、選手会長を務めていた北別府学が申し入れていた案件だった。

 プロ野球選手というのは、ファンの方が思っている以上にナーバスな生き物だ。特に俺には神経質というか余計なことを考えすぎてしまうところがあって、キャンプ中なんかに「ひょっとしたら今年は1本もヒットを打てないんじゃないか」と一人で頭を抱え込むことが必ずあった。

 それをよく古葉竹識監督に「ほ~ら、またヨシヒコのノイローゼが始まった」ってからかわれたりもしたけど、そういう不安と闘っている選手は少なくないんだ。

19880312、大洋・古葉竹識監督と広島・上土井部長、場所=山口・萩

大洋の指揮を執る古葉監督と話す広島・上土井部長(88年3月、山口・萩)

 野崎さんや上土井さんに対する口調は、かなり強いものだったと思う。選手会長の座こそ北別府に譲っていたけど、こういう汚れ役を務めるのもリーダーの役目だと考えていたから。自分ではまっとうなことを言ったつもりだし、それなりの覚悟もしていた。だから後悔のようなものはなかったんだけど、騒ぎはそのまま球団トップのうかがい知るところになり「前から決まっていることじゃないか。それほど言うなら出てこなくていい!」となった。俺も俺で「だったら出ません」って。売り言葉に買い言葉じゃないけど、こっちもカリカリしてね。

阿南準郎監督と高橋慶彦(86年11月、高松県営球場)

阿南準郎監督(左)と高橋(86年11月、高松県営球場)

 どうにも収まりがつかなくなって、俺は阿南監督に「ファームに行かせてください」って直訴したばかりか、選手ロッカーにあったユニホームやらスパイクやら野球道具の一切をクルマに詰め込んで、おまけにロッカーの名札まで剥がして出て行っちゃったんだ。

二軍直訴問題で謹慎し、開幕戦をテレビ観戦

 開幕前の恒例行事だった「カープ激励の夕べ」を欠席しただけでなく、阿南準郎監督に二軍行きを直訴した俺への対応をめぐって、球団は上を下への大騒ぎとなった。

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新選手会長の北別府学(右)への〝援護射撃〟が大騒動へと発展した

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