13年連続盗塁王の真っただ中の福本豊さんはレベチ!「弾丸より速い」【高橋慶彦 連載#1】
はじめに
人は親しみを込めてファーストネームで呼び、その名前はベストセラー小説のタイトルにもなった。グラウンドを縦横無尽に駆け抜け、付いた異名は「赤い疾風」。常人離れした努力を積み重ねて不動のレギュラーの座をつかんだのに泥くささはなく、プレーにも華があった。強かったころのカープにさんぜんと輝いた男。グラウンド内外で数々の伝説を作った高橋慶彦が自らの野球人生を振り返る。
プロのレベルに驚き!「1年でクビ」を覚悟した
いきなりで何だけど、実を言うと自分がプロ野球選手になるなんて夢にも思ってなかった。ガキのころから甲子園に出ることを目標にしていて、それは城西高3年の夏にかなえられたんだけど、その先のことなんてまるで考えていなかったから。1974年のドラフトでカープに3位指名されて「いっちょやってみるか」ぐらいの軽い気持ちでプロ入りを決めたんだけど、当然のことながら甘い世界じゃなかった。
74年の夏の甲子園にエースで4番として出場したが、プロでは内野手としてスタートした(本人提供)
最初に驚いたのは、入団に際して球団と正式契約を交わすときだった。提示されたのは契約金800万円、年俸120万円で、いきなりフロントの人から「悪いけど、ウチはお金がなくて」って言われてね。まあ、お金にこだわっていたわけではないから気にもしなかったけど、何ともカープらしいよね。
プロ1年目は年明け1月の合同自主トレから始まった。当時は今のように「オフシーズン」というものがなかったから、広島市西区にある県営球場で先輩たちに交じってトレーニングした。パンチパーマの選手が多くてちょっとビビったけど、割と気さくに声をかけてもらったりしてね。「ワレは足が速いらしいの」なんて言われて、オフに日本ハムからトレードで来たばかりの大下剛史さんと競走させられたりもした。
練習メニューは走り込みがメーンで量も豊富だったけど、付いていけないほどではない。先輩たちも気を使ってくれていたから、特に不安を感じることもなかった。でも、そんな印象は2月1日にキャンプが始まると180度変わったね。まず先輩たちの目つきが変わったし、誰も声なんてかけてくれない。1年目ということで一軍のキャンプに参加させてもらったんだけど、何もかもレベルが違うわけよ。
古葉竹識監督(75年)
打撃練習をしてもストレートは速くて対応できないし、カーブを投げられようものならバットにも当たらない。それどころか打撃マシンの球ですら、まともに芯で捉えられないんだから。
この年のシーズン中にジョー・ルーツ監督の後を継いで指揮を執ることになる守備走塁コーチの古葉竹識さんに「いいか慶彦、プロでは足だけでもメシが食えるんだぞ」って励ましてもらったりしたけど「なるほど」と冷静に理解できるような精神状態ではなかった。正直なところ「1年でクビになる」と思ったね。
木下富雄さんにもらった〝球聖バット〟に手応え
入団1年目の春季キャンプでプロとのレベルの違いを痛感させられた俺は「1年でクビになるかもしれない」と本気で思った。でも、振り返ってみると、早い段階で危機意識を持てたことは大きな収穫だったね。だってそうでしょ? ヘタはうまくなるしかないんだから。
そのころは打撃マシンの球でさえ、バットの芯で捉えられるのは10回に1回とか2回だった。でも、毎日のように練習していると、その確率が上がってくるわけよ。夏場ぐらいには10回に5回ぐらいは芯に当たるようになってね。それでようやく二軍選手の「並」のレベルなんだけど、成長しているという実感があるから、つらさより喜びの方が大きい。だから次の日も頑張れるんだ。
左から練習に励む高橋慶、木下富雄、衣笠祥雄(79年、日南)
そんな俺を支えてくれる人もいた。大きかったのは学年で言うと2つ上の内野手、木山英求さんの存在だ。ティー打撃をする時なんかにコンビを組んでくれて、俺が「もうダメだ」と音を上げると「まだまだ」と尻を叩いてくれて。逆に木山さんが疲れた顔を見せた時には、俺が「もうひとカゴ打ちましょう」って、けしかけたりしてさ。
当時住んでいた広島市西区にある三篠寮の寮母さんにも協力してもらった。携帯電話なんてない時代で、寮生は順番で夜に電話番をしなければならなくてね。俺は併設された練習場で夕食後にマシン打撃をしたいから電話番なんてしていられない。そんな時に寮母さんが「ヨシヒコちゃん、電話番なら任せておきんさい」って快く送り出してくれたんだ。
広島の三篠寮(90年)
他に夜間練習する選手がいなかったのもラッキーだった。マシンの数は限られているから、寮の先輩が同じことをしていたら順番待ちしなきゃいけない。寮のルールでマシンは午後9時までしか使えなかったんだけど、おかげで夕食後に2時間半はマシンを独占できた。そして9時以降は素振りに没頭した。
皮肉なもので、安い給料だったことも追い風になった。年俸は120万円だったけど、税金だなんだでいろいろと引かれて手取りは月2万円ぐらいしかなくてね。しかも今みたいに用具が支給されるわけじゃないから、バットもグラブも手袋も自腹で…。遊びに行くカネもないから、もう練習するしかないんだ。(※74年当時は大卒初任給が7万8700円で年収に換算すると約120万円)
ヘタだからバットを折ることも多かったんだけど、1本5000円ぐらいだったから安月給の俺には死活問題だった。それこそ練習用のバットなんて、クギでつなぎ合わせてテープをぐるぐる巻きにしたものを使ってたぐらいだ。
新しいバットなんて買えないから、試合では先輩からもらったお古を使ったりしてた。
でも、そのおかげなんだよね。タイ・カッブ式のバットと出合えたのは。えり好みできない中でいろんなバットを使っているうちに「これだ」っていう手応えを感じられたんだ。
入団発表時の「パンチョ」こと木下富雄(73年12月)
ちなみに、俺にタイ・カッブ式のバットをくれたのは「パンチョ」の愛称で知られる木下富雄さんだった。
「ノムさんに刺されたら終わり」の盗塁死
猛練習でレベルアップできている実感はあったけど、そう簡単にプロで通用するわけじゃない。二軍の試合でも散々なもんだった。
兼任監督の野村に刺された高橋慶は、ベンチでヤジられた
当時の阪神に吉良修一さんというカーブを得意とした投手がいて、ベンチからも「次はカーブだぞ!」って声がかかる。で、本当にカーブが来るんだけど、これにかすりもしない。守備もひどくてゴロは捕れないし、フライはポロリ。それまで我慢強く俺をショートで起用してくれていた二軍監督の木下強三さんも、とうとうシビレを切らしたんだろうね。俺はショートをクビになって、外野へ回ることになった。プロ1年目は一軍出場ゼロで、二軍での成績は43試合に出場して打率1割4分3厘、2本塁打。自慢できるような数字は何一つなかったけど、俺がクビになることはなかった。というより、一軍で指揮を執っていた古葉竹識監督の方針から、今で言う「強化指定」のような扱いだったんだ。
俺の1年目にあたる1975年、カープは念願の初優勝を飾った。メンバーもすごくて、外野には山本浩二さんをはじめ水谷実雄さんとシェーン、内野も三塁に衣笠祥雄さん、二遊間は大下剛史さんと三村敏之さんで一塁はホプキンス。
(上)広島初優勝で喜ぶ衣笠、古葉監督、山本浩二、(下)は古葉監督とゲイル・ホプキンス
どう考えても俺が入る隙なんてないんだけど、古葉さんは大下さんや三村さんの“次”を担う選手として俺の足に期待してくれていた。
ただ、残念なことに当時の俺は武器であるはずの足の生かし方をまるで分かっていなかった。細かいことは後で触れるけど、城西高校を卒業するまで本業はピッチャーだったし、3年生の時の打順は4番。そもそも盗塁を求められることもなかったし、走塁について深く考えたり、意識することもなかったんだ。
東映時代の佐野嘉幸(67年)
2年目のオープン戦では一軍に帯同して代走からの途中出場が多かったんだけど、スタートの切り方が分からなくてね。ベンチから「行け」とサインが出ても、タイミングが計れない。ショックだったのが南海とのオープン戦でのことだ。四球で出た佐野嘉幸さんの代走で起用された俺は盗塁を試みたんだけど結果は二塁でタッチアウト。捕手は兼任監督の野村克也さんだった。ベンチに戻ったら先輩たちに「ノムさんに刺されたら終わりだぞ」って冷たく言われてね。
105盗塁の世界新記録を達成した福本豊(72年9月、西宮球場)
思い出しついでに付け加えておくと、レギュラーをつかんだ翌年の79年のオープン戦でも、こんなことがあった。山本浩二さんの計らいで13年連続盗塁王の真っただ中にあった阪急の福本豊さんを紹介してもらったんだけど、もうレベルが違うんだ。それこそ「弾丸よりも速い」スタートで、真面目に「この人はエイトマンだ」と思ったもんだよ。
たかはし・よしひこ 1957年3月13日生まれ。東京都出身。城西高のエース兼4番として74年夏の甲子園に出場。同年のドラフト3位で広島に入団。3年目にスイッチヒッターに転向し、78年からレギュラーとして定着する。広島に在籍した15年間で4度のリーグ優勝と3度の日本一に貢献。79、80、85年に盗塁王に輝く。79年には現在も日本記録である33試合連続安打を達成した。89年オフにロッテ、90年オフに阪神へ移籍し、92年に引退。その後は指導者としてダイエー(現ソフトバンク)、ロッテを渡り歩いた。
※この連載は2013年1月8日から3月8日まで全34回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全11回でお届けする予定です。