楽しいことも、つらいことも…俺の野球人生はカープとともにあった【高橋慶彦 連載#11・最終回】
山本浩二さんが監督に就任し、変化を痛感
何だかんだ言っても、選手を生かすのも殺すのもチームを預かる監督次第だ。どんなに才能に恵まれていようとも、使ってもらえなければ始まらない。逆に才能に恵まれていなくたって、我慢して使い続けてもらっているうちに一流プレーヤーの仲間入りすることはある。実際に俺自身がそうだった。
ミスター赤ヘルが監督として復帰したカープは新時代を迎えようとしていた
全ては古葉竹識監督との出会いから始まった。結果を出した選手に「お前は入団したころから人とは違っていたもんな」とか「当時から光るものがあった」と訳知り顔で言う人は少なくないけど、そう簡単に見極められるものじゃない。チャンスを与えたからといってすぐに結果が出るわけではないし、結果が出たところで長続きするとも限らない。自分が教える立場になってから痛感したけど、人を育てるのには我慢も必要だ。
教わる側にしたってそう。技術の習得っていうのには反復練習が欠かせないから時間がかかる。俺がスイッチヒッターに転向した時だって「半年後にどういう結果を出すか」というスパンで物事を考えていた。そういう意味で言うと、最近の若い選手はすぐに結果を求めたがる傾向が強い。
ちょっとヒットが出ないぐらいで不安になったり、コーチの言うことが信じられなくなる。
ロッテのコーチ時代にもいたよ。あえて名前は出さないけど、コーチの言うことが信じられないだけでなく、自分のスイングに自信が持てなくて何試合もしないうちに打撃フォームをころころ変える選手が。ダメな時に立ち返る「原点」まで見失ってしまってて、手の施しようもなかった。
そういう点で言うと、俺にはやり続ける忍耐力とか体力が人よりあった。同時に、山本一義さんや山内一弘さんのように付きっきりで面倒を見てくれるコーチもいた。そしてその上で、古葉さんが見守ってくれていた。
中日・山内監督と広島・古葉監督(84年2月、串間)
ただ、監督が代われば目指す野球も変わるし、使う選手だって変わる。それを痛感したのは「ミスター赤ヘル」こと、山本浩二さんが監督として現場復帰した1989年のシーズンだ。
古葉さんからバトンを受け継いだ阿南準郎さんは、就任当初から自他ともに認める「山本浩二への引き継ぎ役」で「古葉野球の継承」を掲げていた。でも、満を持して登板する浩二さんはそうじゃない。目指す野球のスタイルが大きく変わるわけじゃなかったけど、球団としても長期政権を前提としていた。そんなタイミングで将来のリーダー候補としてドラフト1位で入団してきたのが、野村謙二郎だった。
新入団発表で握手する野村謙二郎と山本浩二監督(88年12月、広島)
もちろん空気は察していたよ。スポーツ紙なんかでは、俺のトレードに関する記事が頻繁に出るようになっていたし…。実際、現役引退後に違った形で世話になる“あの人”からも、衝撃の電話をもらったりしていたから。
謙二郎の活躍で〝カープでの務め終わった〟
1987年の開幕前に起きた例の「激励会ボイコット」ぐらいから、俺のトレードに関する記事がスポーツ紙上で頻繁に掲載されるようになっていた。そのほとんどが、いわゆる“飛ばし”だったわけだけど、火のないところに煙はたたない。球団内に、俺を出したいという考えがあることは感づいていた。
ご存じの通り、俺は89年のオフにロッテへ交換トレードで移籍するわけだけど、それ以前に決まりかけていたトレードもあった。
細かい経緯までは知らないけど、ある年のオフに当時は西武の管理部長をされていた根本陸夫さんから突然、電話がかかってきてね。「トレードが決まったから。年俸は7000万円だけどいいな」って。その電話で交換要員まで告げられていたけど、結果的には破談になった。後で聞いた話では、カープの方が断ったらしい。
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