強かったころのカープでレギュラーを張っていたからこその〝華麗なる交遊録〟【高橋慶彦 連載#9】
超極秘交際の人気女優宅で、マネジャーが突然現れて…
相手に迷惑がかかるので、名前は伏せさせてもらいます。ある女優さんと交際していた時の話です。ご存じの方は「あの人のことだな」とニヤニヤしてください。
1979年の日本シリーズでMVPになった俺は、賞金100万円と副賞としてマツダのルーチェというクルマを贈られた。オフに慌てて運転免許を取得して、しばらくは真っ赤なルーチェに乗っていたんだけど、ちょっと自分の理想とは違っててね。翌80年のシーズン中には、真っ赤なポルシェ911SCに乗り換えた。
正月用撮影で笑顔の高橋慶彦(79年12月、広島市内)
広島市民球場での試合後に、交際中だった女優と会うために真っ赤なポルシェをぶっ飛ばして東京まで行った――。いまだに人から「そんな噂を耳にしたことがあるんですけど、本当ですか?」と尋ねられる。ウソに決まってるだろっつーの。真っ赤なポルシェを駆って、東京に住むカノジョに会いに行ったのは本当だ。それは認める。だけど「シーズン中」というのは真っ赤なウソだ。
東京―広島間は、おおよそ900キロ。仮に法定速度の倍以上のスピードで走ったとしても、5時間近くはかかる。朝までにたどり着くのは可能でも、そのまま翌日のナイターに出場するのは不可能だ。冷静に考えれば分かりそうなもんだけど、噂っていうのは怖いね。
ハデな世界の人と付き合っていたせいか、世間様からは「夜も盗塁王」なんて揶揄されたこともあった。自分では、いつでもマジメな恋愛をしていたと思っているんだけど…。ただ、貪欲な面はあったかもね。
初代タイガーマスクとして大人気だった佐山聡(左)とも親交があった
あるCMで一躍人気になった別の女優さんとの交際がそうだった。もう、好きで好きでたまらなくてね。カノジョとは何の接点もなかったんだけど、ツテをたどってたどって何とか自宅の電話番号をゲットして、電話攻勢で口説き落としたんだ。その時も、かなりの10円玉を使ったと思う。公衆電話からの連絡がメインだったから。
その女性との交際は超極秘でね。カノジョのマネジャーさんにもナイショだった。だから、予期せぬタイミングでマネジャーさんが来た時には焦った。カノジョに「いいから黙って隠れてて」って言われて、言われるがままに声を押し殺してクローゼットに潜んでいたこともあったっけ。
遊びだけでなく守備も華麗だった(85年7月、広島)
まあ、いろいろあったし、遊んでいたことは事実だ。でも、遊びほうけることはなかった。自分の人気は「プロ野球選手だから」という自覚があったから。この軸がブレてしまったら、ただの遊び人になってしまう。職業意識とでもいうのか、その辺が分からずに恵まれた才能を持ちながら消えていってしまった選手は掃いて捨てるほどいる。
志半ばで引退に追い込まれた選手が、決まって口にするセリフが「若い時にもう少しやっておけば良かった」。もちろん俺にだって「ああしておけば…」という思いがないわけじゃない。でも後悔はないし、実際にやれるだけのことはやった。そう思えるだけでも、プロ野球選手として幸せな人生だったと言えるんじゃないかな。
たけしさんと草野球、トップアイドルとも酒を飲んだ
女性関係の話が続いたけど、仲良くさせてもらっていたのは女性ばかりじゃない。俳優さんやトップアイドルとも知り合う機会はあった。そういう付き合いができたのは、プロ野球選手だったからというだけじゃなく、強かったころのカープでレギュラーを張っていたからという面が多分にあると思う。
当時は「人気のセ、実力のパ」なんて言われていたほどで、プロ野球界は人気球団の巨人が中心にいて、その巨人がいるセ・リーグばかりが注目されていた。それこそ巨人戦は全試合、地上波で中継されていたし、視聴率だって当たり前のように20%を超えていた。
やはり選手っていうのは注目されれば張り切るし、やりがいも感じる。そして結果が出れば称賛もされる。俺はカープに15年間在籍して、4度のリーグ優勝と3度の日本一にレギュラーとして貢献した。だからこそ、違う世界のトップといわれる人にも注目されたし、食事の場や人の紹介などでそういう人たちと知り合う機会にも恵まれた。
名前を挙げればキリがないので分かりやすいところで言うと、少年隊の東山紀之は彼が19歳のころから付き合いがあった。何がキッカケだったか思い出せないけど、俺が遠征で東京へ行った時や彼が仕事で広島へ来た時など、都合をつけて食事をしたりしていた。
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