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プロ2年目、イップスに悩み失策王…人知れずボーッと夜空を見つめた【田中幸雄連載#7】

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イップス克服&打力アップのため連日特訓

 プロ2年目の1987年は、大きな壁にぶち当たった。開幕戦での一塁への悪送球を機に何の前触れもなく患ってしまったイップス。原因は分からないが、右手の指先の感覚がおかしい。幼少のころから送球と肩の強さに関しては絶対的な自信を持っていただけにショックだった。

 しかし、そんな状況でも高田繁監督は試合で使い続けてくれた。前年まで正遊撃手には名手の高代延博さんが就いていたが、守備に難のある高卒2年目の若手を代わってスタメンに定着させたのだ。遊撃なら社会人からドラフト1位入団した私と同期の広瀬哲朗さんも候補として挙がっていたはず。背景には若返りを図るチーム方針もあったとはいえ、高田監督の覚悟と我慢は相当なものだったと思う。

高代延博(80年、後楽園)

 この年はほぼ一軍に定着し、112試合に出場した。だが、遊撃守備ではリーグワーストの25失策。打撃も9本塁打、33打点は高卒2年目にしては及第点だったかもしれないが、打率は2割3厘と褒められる数字ではなかった。申し訳ないとの思いもあったが、もうやるしかなかった。

 2年目のシーズンでは難題克服のため猛練習を積んだ。まず取り組んだのはネックとなっていたイップスの克服。守備力向上のために心血を注いでくれたのは、守備走塁コーチの猿渡寛茂さんだった。当時は静岡県伊東市に居を構えていたが、日本ハムの選手寮「勇翔寮」に住み込み、私の2つ隣の部屋で生活していた。

 本拠地の後楽園球場や川崎球場など東京近郊での試合が終わって寮に戻るとデーゲームだけでなくナイター後でも、守備特訓が待っていた。猿渡さんとマンツーマンで捕球や送球の反復練習を約1時間、日課のように必ず行った。ナイター終了後、日付が変わってもなお汗を流し続けていることも珍しくなかった。

ジュニアオールスター戦MVPの広瀬哲朗(86年7月、ナゴヤ)

 シーズンオフになると打撃コーチの千藤三樹男さんが付きっきりで打撃を指導してくれた。多摩川グラウンドや寮に通ってもらい、週4~5日、4勤1休ぐらいのペースで午前中から日が暮れるまで厳しい練習メニューに取り組んだ。このオフに千藤さんから直々に打撃指導を受けていたのは私と同期入団の沖泰司さんだけ。昨今の育成システムでは平等な指導が求められるだけに、こういう“えこひいき”はなかなか考えられないことかもしれない。ただ、それだけこのころの自分は「強化指定選手」として目をかけてもらえていたということだろう。私はそんな思いに気付く余裕もないまま、がむしゃらに毎日を突っ走っていた。

若き日の特訓の成果で田中の送球は安定した(顔写真は猿渡コーチ)

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 プロ2年目に送球イップスを経験したことで、心境に変化が表れた。今まで好きだからこそ一心不乱に取り組めた野球に対し、初めて「きつい」と思うようになった。

 遊撃守備で失策を重ねても、周りの先輩たちは驚くぐらい何も言わなかった。1987年はパ・リーグの失策王で、普通に考えれば「エラーばっかりしやがって」などと文句を言われても仕方がない。ところが、あまり自己主張をすることなくおとなしいタイプである自分にカミナリを落としても、どんどん落ち込んでしまうと考えてくれたのか。それとも、ますますふさぎ込んでドツボにハマっていってしまうと気を使ってくれたからなのかもしれない。

 ただ、そういう空気は20歳になるかならないかの自分であっても、何となく感じ取れた。自分のミスでみんなに迷惑をかけている。そう思って周りの目を気にするようになったのは、ちょうどそのころからだった。

 試合でミスをすると当然落ち込んだ。終わってから寮に戻っても用意されていた夕食を食べたくないと思う時もあった。屋上に一人で上がり、人知れずボーッと夜空を見つめたりもした。辞めたいとまでは思わなかったが「このままやっていけるのだろうか」と不安になることもあった。それでも自分の力で乗り越えていくしかなかった。

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