見出し画像

世が世なら…実はドジャースから獲得オファーをもらっていた【田中幸雄連載#6】

前の話へ / 連載TOPへ / 次の話へ

鮮烈デビュー飾るも好調維持できず再び二軍へ

 1986年6月10日、本拠地の後楽園球場で行われた南海戦に「9番・遊撃」でプロ初出場を初スタメンで飾り、都城高校の先輩・井上祐二さんから第2打席でプロ初安打初アーチ。鮮烈なデビューを飾ったことでメディアも大騒ぎになった。同期にはPL学園から鳴り物入りで西武に入団したドラフト1位の清原和博がいたことから“将来の大砲”として比較されるほどだった。

西武のドラ1・清原和博(85年12月、池袋の球団事務所)
西武のドラ1・清原和博(85年12月、池袋の球団事務所)

 でも、自分はそんな騒ぎっぷりに対して意外と冷静だった。まだまだ、そんなに持ち上げられるほどの実力は備わっていない。周囲からの過度な期待に戸惑いさえ覚えた。

 それは、すぐに結果で表れた。一軍デビュー戦翌日の同カードでは打順が2つ上がって7番で先発出場するも無安打。2戦連続の8番となった13日の阪急戦でも安打は出ず、3試合無安打に終わり、この日を最後にスタメンから外された。華々しかったのは最初のプロ初安打初本塁打だけ。その後は17打席連続無安打の長いトンネルに迷い込み、再調整のため二軍へUターンすることになった。

 ショックはまったくなかった。プロのレベルに対応できるだけの技術も体力も足りないことは分かっていた。だからもう一度、ファームでじっくりやり直していこうと前向きに考えた。

 ところが二軍に戻ると不思議なもので、そこそこに対応できる自分がいた。一軍と二軍の差を感じつつも、まだ何をするにも余裕がない自分は日々懸命に練習を重ね、試合では常にベストプレーを心掛けた。

 二軍で好調なプレーを続けていると“上”からお呼びがかかる。でも、一軍では好調を持続できず再び二軍へと戻されてしまう――。その繰り返しだったプロ1年目は一軍に3回昇格したものの出場14試合で27打数4安打、4打点、1本塁打、打率1割4分8厘の成績に終わった。

プロ初本塁打後の田中は17打席連続無安打で二軍へ逆戻り

 一方でイースタン・リーグでは打率2割9分9厘、9本塁打、29打点。遊撃守備もそれなりに評価されたようで、ベストナインにも選ばれた。

 振り返ってみれば、ルーキーイヤーは調子の波こそあったが、一軍も経験できた上に二軍では試合出場を重ねながらプロで戦っていくための自信を多少なりとも得ることができた。「とにかく一歩一歩、前に進んでいくぞ」。

 そう自分に言い聞かせ、地道にまい進して臨んだ翌87年シーズンに飛躍への扉が開くことになる。

日本人大リーガー野手第1号になっていたかも


 プロ1年目の1986年シーズンが終わると、秋季キャンプには一軍メンバーとして参加することになった。一軍を経験し、二軍戦ではそれなりの成績を収めたことも評価してもらえたようだった。

 そして臨んだプロ2年目、春季キャンプも一軍メンバーに名を連ねることになった。1次キャンプは米フロリダ州サラソタ。大リーグのチームがスプリングトレーニングを行っている“グレープフルーツ・リーグ”の本場で一軍の先輩選手たちとともに汗を流した。

 異国の地でもやるべきことは変わらない。ただ黙々と己を磨き、まい進するのみ――。これまで通りのスタンスで自分はぎらぎらと輝く太陽のもと、全力で練習に取り組んだ。そんな姿勢が実を結んだのか、このキャンプ中に何度か組まれた大リーグチームとのオープン戦では結果も残した。レンジャーズ戦では本塁打も放った。

 後日聞いた話では、レンジャーズの球団関係者が当時19歳だった自分のプレーを見て「あのヤングボーイを残してくれないか」と本気でチーム側に懇願してきたという。世が世なら、この話をきっかけに大リーガーという道がもしかすると開けていたのかもしれない。自分にはそんな気持ちが後にも先にもまったくなかったが…。

プロ2年目の田中(左)はメジャーから"ファーストオファー"を受けていた

続きをみるには

残り 2,093字 / 2画像

¥ 100

カッパと記念写真を撮りませんか?1面風フォトフレームもあるよ