プロ初安打が初本塁打!これは夢なのか…とダイヤモンドを1周した【田中幸雄連載#5】
2年前の夏の甲子園以来!ドラフト同期・桑田との対決は
プロ1年目の春季キャンプは二軍スタートだった。1986年2月1日、日本ハムの二軍キャンプ地である千葉県・鴨川市営球場で種茂雅之二軍監督に促され、多くの先輩選手たちの前であいさつしたことをおぼろげながら記憶している。
緊張こそしていたが、当時は先輩選手たちの練習を目にしてもビビるようなことはなかった。確かに新人選手たちが初参加の春季キャンプでプロのレベルの高さに目を丸くすることは今も多い。
だが、自分は「この人、すげえな」「この人には勝てない」などと思わなかった。昔からの性分で他人と競争するのではなく、自分のやるべきことをやるという意識を持っていたからだ。自分の技術を細かく分析し、他人と比べてしまうと諦めてしまいそうな気もしていた。それで向上心を失ってしまったら元も子もない。そういう心構えでいたことが、きっとプラスに働いたのだと思う。
その春季キャンプではとにかく懸命に練習し、開幕後も二軍で黙々とプレーし続けた。当時の印象で一番強く残っているのは、二軍打撃・外野守備コーチの村井英司さんにマンツーマン指導をしてもらったことだ。現役時代に指導者と選手の間柄だった中西太さんの教えを大切にしていた人で新人の自分に対しても、その理論をもとに実践。とても親身になって打撃を指導してもらった。
このころの自分はグリップを胸の前に持ってくるような変則的な打法だったこともあり、キャンプ中から打撃フォームを改良すべきと唱える人も何人かいた。その中で村井さんにはフォームうんぬんではなく、まずは体力をつけることが大事との考えから、とにかくバットを振るように命じられた。単調な練習だが、スイング回数を増やすことで自分にとって理想的なバットの出し方や軌道が体に染み込んでいく。最初はそういう繰り返しによって、プロ野球選手としてのステップを踏んでいった。
ちなみに同年春、県営大宮球場で行われたイースタン・リーグの巨人戦では、ドラフト同期の桑田真澄と対戦したこともあった。2年前の夏の甲子園以来のリマッチ。
この試合では三振を1つ奪われたが、本塁打も放って面目躍如。かつてPL学園のエースだった桑田とは異なるリーグでプレーすることになったが、この時は何だか不思議な気持ちだった。高校時代に対戦した同期とこのような形で“再会”するとは思わなかったからだ。
二軍では早々と3番を任され、打率も2割9分台、本塁打もそれなりに数を増やしていた。そして6月に入ると好調な打撃を買われ、ついに一軍からお呼びがかかることになる。
一軍昇格を高田監督に進めてくれた巨人・須藤二軍監督
高卒1年目の18歳に白羽の矢が立ったのは、1986年6月のことだった。二軍ではイースタン・リーグ開幕当初から3番を任され、それなりの成績は残していたが、わずか2か月ほどで「上がってこい」。こんなに早く一軍昇格するとは、考えてもいなかった。
二軍の種茂雅之監督から通達を受けても半信半疑だった。キャンプ中から親身になってマンツーマンの打撃指導をしてくださった二軍打撃・外野守備コーチの村井英司さんからも「良かったな。頑張れよ」と声をかけてもらったが、うれしいというより「何で自分なのかな」との思いのほうが強かった。
一軍首脳陣はいち早くプロのレベルに慣れさせ、場数を踏むことで成長させようというプランだったのかもしれない。だが、毎日を必死に生きている18歳には、周囲の大人たちの考えをあれこれと勘繰る余裕などあるはずもなかった。
現役選手登録(現在の出場選手登録)される前から、一軍の練習に合流した。場所は屋根が付く前の西武球場だった。試合前、アップする先輩選手たちに交じって見よう見まねで体を動かした。これから試合に出場する自軍の先輩選手だけでなく、グラウンドには西武の有名どころの選手たちがずらりと顔を揃えて汗を流していた。
スタンドも二軍戦とはまるで光景が違う。観客数も格段に多く、時折、練習中の選手たちに声援も飛んでいる。いつもはひょうひょうとしている自分も、この時ばかりは「プロのグラウンド」に立っていることを自覚した。
それにしても、なんで高卒1年目の自分にお呼びがかかったのか。一部では「時期尚早」との声もあったようだが、のちに聞いた話によると、私の一軍昇格に最も積極的だったのが一軍監督の高田繁さんだったそうだ。そして高田さんに私の存在をプッシュしてくれていたのが、当時は巨人の二軍監督だった須藤豊さんだというのだから不思議なものだ。
須藤さんは二軍戦で何度も私のプレーを見ており、ジャイアンツでの現役時代から縁のある後輩の高田さんに「お前のところの二軍に、ずいぶんとイキのいい新人がいるぞ」と耳打ちしてくれていたというのである。それを聞いた高田さんが二軍から私の情報を細かく吸い上げてくれるようになり、早い段階での一軍昇格に至ったそうだ。どこで誰が見てくれているか分からない。今さらながら、そう思う。 そして一軍帯同から数日が経過した6月10日。本拠地・後楽園球場での南海戦で正式に一軍昇格すると、いきなり「9番・遊撃」でスタメンに抜てきされた。
プロ初安打が高校の先輩・井上さんからホームラン でも内心は…
その日が訪れたのは日本ハム入団1年目、1986年6月10日だった。それまで数日間、一軍に帯同していた自分はこの日に選手登録され、即スタメンに抜てきされた。場所は本拠地・後楽園球場。南海が相手だった。
緊張より驚きの方が大きかった。一軍の公式戦を経験していない自分がホームのグラウンドに立っていいのか。果たして満足にプレーできるのだろうか。高田繁監督や首脳陣に「9番・遊撃」での先発出場を言い渡されたときは、そんな戸惑いも一瞬だけ感じた。
だが、必死でやるしかない。まずは目の前のハードルを全力でクリアする。常にそういう気持ちを持っていた私は、気持ちを切り替え、平常心で試合に臨んだ。
記念すべき一軍デビュー戦。とにかくスタンドからの応援がすごかった。当時のパ・リーグは今ほどお客さんもたくさん入ってはいなかったが、それでも二軍戦とは比べものにならない。ホームグラウンドで応援団の方々の声援を背にすると、自然と武者震いした。
デビュー戦では何とか無難にこなした守備よりも、やはり打席の方が強く印象に残っている。相手先発は右腕の井上祐二さん。5学年上の都城高校の先輩だ。不思議な縁を感じながら臨んだ第1打席は左翼フェンス手前へのフライアウト。そして5回の第2打席、忘れることのできない一打が飛び出した。
高めに浮いた直球を思い切り振り抜くと、打球はぐんぐんと伸びて左翼スタンドへ。記念すべきプロ初安打は初本塁打となった。耳をつんざくような大歓声に包まれ、ダイヤモンドを一周。訳が分からなくなった。これは夢なのか――。そんな思いにも駆られたが、ベンチに戻って先輩たちから手荒い祝福を受け、それが現実であることを気づかされた。
試合後には多くの報道陣に囲まれた。何を質問されても、うまく答えられなかった。ただ来た球を振り抜き、それがたまたまスタンドインしただけのことだ。それでも周囲は大騒ぎ。翌日のスポーツ新聞でも各紙に「日本ハムに18歳の超新星現る」「ファイターズにスター誕生」などの大げさな見出しが並んだ。
「そんなに持ち上げられても…」。口には出せなかったが、内心では明らかに戸惑いがあった。しかし、あまりにも鮮烈なデビューを飾ったことで周りの評価はうなぎ上りとなった。こうしたギャップはすぐに結果で表れてしまう。1年目はジェットコースターのような浮き沈みを味わうことになった。
※この連載は2019年10月1日から12月27日まで全49回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全18回でお届けする予定です。