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「ドスを持ったヤクザ3人と互角に渡り合った」藤田元司さんの〝伝説〟【定岡正二連載#21】
あれほど「投手の気持ち」を分かってくれる監督さんは他にいない
「とんでもない人が監督になったぞ…」。あの時のボクは驚き、心底おびえた。1981年のシーズンから巨人の指揮を執ることになったのは藤田元司さん。解任騒動で球団を去った前監督の長嶋茂雄さんには本当にお世話になりっ放しだったけど、藤田さんとはそれまで一度も話したことはなく、人となりをほとんど知らなかった。
現役時代の藤田さんが「瞬間湯沸かし器」と呼ばれていたのは聞いていたけれど…。「若いころは四国で“番”を張っていたらしい」「ドスを持ったヤクザ3人と互角に渡り合ったこともあるそうだ」などという怖すぎる“伝説”を耳にした時は思わず震え上がった。
「みっともないピッチングをしたら、それこそ半殺しにされるんじゃあ」。そう考えると夜も眠れなくなるほどだったが…。実際にボクたちの前に現れた藤田さんは、とても優しい目をした物腰の柔らかそうな人だった。
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思わず新聞記者の人に「藤田さんって怖い人じゃあなかったの?」「あの伝説はウソだったの?」と裏取り取材をしてしまったほど。「優しそうにしているのは最初だけなんじゃないか」とも勘繰った。だが、藤田さんは数々の“事前情報”とはまるっきり正反対の監督さんだった。
あれほど「投手の気持ち」を分かってくれる監督さんは、ほかにいないんじゃないかと思っている。打ち込まれてマウンドに投手交代を告げに来る監督は、たいてい怖い顔をしているものだ。しかし、藤田さんは温和な表情で「次、頑張れよ」「4日後は期待しているぞ」と言って、それまでどんなにふがいない投球をしていようとも、優しくねぎらってくれた。
「怒られる!」と思っているところへ優しい言葉をかけられると、弱いものだ。逆に「オレは何をやっているんだ」という気持ちが芽生えてくる。そして「この監督さんのためにも、次は結果を出さなきゃいけない」と強く思った。
視野の広い監督でもあった。「今日は顔色が悪いな」「ちょっと動きが重かったな」。選手のその日の表情や練習での細かい動きなど、見ていないようでしっかりと見ていてくれた。「監督はボクたち選手のことを分かってくれている」。そう思うと日々の練習にも力が入るというものだ。
実際、藤田さんはレギュラーよりも、弱い立場の選手をよく見ていた。力のある強い者は黙っていてもやる。チームとしての厚みを増すには若手の底上げが必要不可欠ということだろう。バントと守備を徹底的に練習した川相昌弘をレギュラーに抜てきし「ノミの心臓」と言われた斎藤雅樹を独り立ちさせるなど、藤田さんのおかげで花開いた選手は数え切れない。
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そんな藤田さんだけど、グアムキャンプで一度だけ鬼の形相を見せたことがある。あれは本当に怖かった…。
烈火のごとく怒った藤田監督が中井さんの頭をバシッ
ボクが本気で怒った藤田元司さんを見たのは、後にも先にもあの一度だけ…。忘れもしない1982年、グアムキャンプでの出来事だった。
あの時のグアムはマスコミが「灼熱地獄」と表現したように、ユニホームを着ていても、練習後には背中が真っ赤に日焼けした。背番号の跡がくっきりと残るぐらいで、とにかく日差しの強さがハンパではなかった。
だから選手全員には「海水浴禁止令」が通達された。重度の日焼けはやけどと同じで、体調を崩したり発熱につながったりすることもあり、練習どころではなくなってしまう。グアムまで何をしに来ているのかを考えれば、それは当然ともいえる措置だった。
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だが、あの時のボクたちは何を考えていたのだろう。「海水浴がダメでも、プールならOKなんじゃないか」。そんなことを誰かが言い出して、キャンプ休日に海岸近くの天然プールに遊びに行ってしまったのだ。
メンバーはボクのほかに中畑清さん、山本功児さん、中井康之さんら、5~6人はいたと思う。ただ「天然プール」とはいっても海岸の入り江を改造して作ったような形状をしていて、水は海水。海とほとんど変わりがない。そこでは高さ3メートルぐらいの飛び込み台から飛び込んだりして、みんな子供のようにはしゃぎ回った。そのうち地元の人たちが飛び込み台よりも高いガケの上によじ登って、そこから飛び込んでいる姿を見ると、ボクもついついやってみたくなった。高さは7メートルぐらいはあったろうか。「定岡、行きま~す!」。あれは最高に気持ちが良かった。
だがしかし…。その時の写真が、翌日のスポーツ紙に掲載されてしまい、これを見た藤田監督が烈火のごとく怒ったのだ。朝のミーティングで「昨日、天然プールに行ったやつは立て!」と怒鳴った藤田さんの手には、問題のスポーツ紙が握られていた。しかも、その手がわなわなと震えているではないか!「これはまずい、大変なことになるぞ!」。あの時は藤田さんのただならぬ“殺気”に誰もが修羅場を覚悟した。ボクたちが震えながら立ち上がると、藤田さんは丸めた新聞を振り上げて「バシーン!」。中井さんの頭を思いっきり引っぱたいた。
なぜか殴られたのは中井さんだけだった。藤田さんの一番近くにいた中畑さんを“スルー”したのは“首謀者”が中井さんだと判断したからかもしれない。
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ただあの時、眼鏡の奥でギラリと目を光らせた藤田さんのド迫力には「この人を本気で怒らせたら大変なことになる」とみんなが直感した。そして「若いころは四国で“番”を張っていた」「ドスを持ったヤクザ3人と渡り合った」などという“藤田伝説”の数々は、本当にあったことなんだと思った。
さだおか・しょうじ 1956年11月29日生まれ。鹿児島県出身。鹿児島実業高3年時の74年、ドラフト会議で巨人の1位指名を受け入団。80年にプロ初勝利。その後ローテーションに定着し、江川卓、西本聖らと3本柱を形成するも、85年オフにトレードを拒否して引退を表明。スポーツキャスターに転向後はタレント、野球解説者として幅広く活躍している。184センチ、77キロ、右投げ右打ち。通算成績は215試合51勝42敗3セーブ、防御率3・83。2006年に鹿児島の社会人野球チーム、硬式野球倶楽部「薩摩」の監督に就任。
※この連載は2009年7月7日から10月2日まで全51回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全25回でお届けする予定です。