見出し画像

日本テレビぶちぎれ!日プロの裏切り行為でプロレス中継打ち切り【坂口征二連載#20】

前の話へ / 連載TOPへ / 次の話へ

国内デビュー戦の相手 ルイス・ヘルナンデスが37歳の若さで巡業中急死

 激動の1971年が終わり、72年が始まった。

 久々に日本で正月を迎えたが、悠長なことは言ってられない。馬場さんと並ぶエース・猪木さんは「選手会除名」という形で日本プロレスを去った。私は猪木さんの代役として、数々のタイトルマッチに出場することが決まった。

 昨年末、吉村道明さんとのタッグでアジアタッグ王座は死守していたものの、BI砲がザ・ファンクスに奪われた至宝・インターナショナルタッグ王座は奪われたまま。また猪木さんの代名詞であり、猪木さんを中心とするNET中継の看板だったUN王座も米国のNWAに返還されていた。

 会社側は、私にUN王座、そして馬場さんと私のタッグでインタータッグ王座奪還という青写真を描く。心中複雑ではあったが、猪木さんが去り会社が混乱する中、私がやるしかない。

 1月5日には名古屋で、アサシンB&ザ・ストンパー組に快勝し、アジアタッグ王座初防衛に成功。シリーズ終了後の2月には渡米して、新たにUN王者に認定されていたキング・クローに挑戦することが決定した。

 正月シリーズには、私の国内デビュー戦の相手であるメディコ2号が、素顔のルイス・ヘルナンデスとして来日。メディコ時代と比べ、随分と太った印象を受けたが、反則で散々、苦しめられた白覆面の頃とはイメージが変わり「陽気なメキシカン」に変貌していた。

 ところが事件が起きる。巡業中の2月1日、名古屋のホテルで、ヘルナンデスが急死してしまったのだ。

 ヘルナンデスは前々日(1月30日)の岐阜大会では上田馬之助さんと一騎打ち(反則勝ち)。この日は月食とあって、試合前には控室から先頭切って屋外に飛び出し、月を眺めつつ「月食を見ると縁起がいいんだ」などと話していたことを思い出す。

秋場所優勝の玉の海ものちに急逝した(70年9月)

 まだ働き盛りの37歳。死因は急性心不全と心筋梗塞とのことだった。確かに太ったヘルナンデスは試合中もよく息を切らせていた。前年10月に大相撲の横綱・玉の海が28歳の若さで急逝し「スポーツ選手の健康管理」が問われていた矢先の出来事だった。
「国際暗殺団」の触れ込みで来日中だったアサシンBが、すぐに本国のヘルナンデスの遺族に国際電話を入れ、訃報を伝えたところ「遺体は日本で荼毘に付した上で帰してほしい」と告げられた。

 遺体は名古屋から東京・代官山の事務所へと運ばれ、2階に作られた祭壇へと安置。2日、東京・葛飾で行われたシリーズ最終戦を終えた選手が到着するのを待って通夜が営まれた。

ヘルナンデスの出棺を悲しげに見送る坂口氏。右はエル・シコデリコ。左端の馬場さんの表情が印象的だ…

 3日の午前には出棺。桐ヶ谷斎場にて荼毘に付されることになった。いよいよ火葬となった時、我々レスラーが棺を持ち上げたのだが、太ったヘルナンデス用に特注した棺おけが、何をどうしてもサイズ的に火葬炉に入れることができない…。職員に聞いても桐ヶ谷斎場の火葬炉はこのサイズに適応していないという。 困った…。私はとっさの判断で、周りのレスラーに指示して、棺おけの横板をバリバリと手で破壊して叩き割り、そのまま強引にヘルナンデスの棺を火葬炉へと突っ込んだのだった。

 よく試合前の挑発で「お前を火葬場へ叩き込んでやる」「棺おけを用意しておけ」なんてすごむ選手がいたものだが、私はデビュー戦の相手を、文字通り、自ら火葬炉へと叩き込むことになった。何たる運命だ…。

 その光景を見ていた馬場さんがポツリと「なあ坂口。いつか我々が死んだら、やっぱり棺おけも簡単には用意できないのかなあ」とつぶやいていたのが印象に残る。

ルイス・ヘルナンデスの遺影(72年2月)

 ヘルナンデスの遺骨はUN王座挑戦のため渡米を控えていた私が直接、遺族のもとへと送り届けるつもりでいた。だが「一日でも早いほうがいい」と、アサシンBが名乗り出てくれて、桐ヶ谷斎場から羽田空港へと直行し、本国へと送り届けてくれた。

 悲しい出来事ばかりが続く中、私はUN王座挑戦のため2月4日に渡米。いよいよキング・クローに挑戦だ――。

プロ入り5年目、猪木&新日本からの誘いが!!

 1972(昭和47)年2月。私はNWA認定UNヘビー級王座挑戦のためロサンゼルスに到着。9日(現地時間)にはオリンピック・オーデトリアムで前哨戦を行い、ジ・アウトローに快勝した。

 いよいよ11日には同会場で王者のキング・クローに挑戦。この時点で私は、クローがどんな選手なのか知らない。「元NWA世界王者のジン・キニスキーの秘蔵っ子らしい」程度の情報は聞いていたが、具体的にはサッパリ分からない。

 ロスで合流したミスター・モトさんは「NWA世界王者のドリーを100としたら、80程度の選手ヨ。サカが思い切り行けば必ず勝てる」とハッパをかけてくる。

 私と入れ替わりで米国修行に出発し、社長と同じ「ヨシノサト(芳の里)」のリングネームでデトロイト地区で活躍中だった高千穂明久(後のグレート・カブキ)がロスへと駆けつけ、セコンドを買って出てくれた。

キング・クローをかつぐ坂口氏

 モトさんの指示通り、あえて気負わず戦うことを心がけた。1本目こそクローの肉弾ボディープレスに3カウントを許したが不思議と焦りはない。2本目はジャンプしてのスリーパーホールドから必殺のアトミックドロップ6連発でフォール。

 3本目はある程度、クローの攻撃を見切れていた。1本目と同じく、仕掛けてきたボディープレスを自爆させ、そのままアルゼンチン式背骨折りで担ぎ上げてギブアップを奪った。レフェリーのレッドシューズ・ズーガンから勝利を告げられ、セコンドの高千穂と抱き合って勝利を祝う。プロ入り5年目にして、ついに初のシングル王座を手にした。

UN王座を奪取しレフェリーのズーガンを抱え喜ぶ坂口と駆け寄る高千穂(72年2月、ロサンゼルス)

 この試合の模様はNET(現テレビ朝日)で中継。番組の看板でもあったUN王座を、再び日本に取り返せたことで、会社側も安堵したことだろう。

 2月21日に帰国後、私はUN王座とアジアタッグ王座(パートナーは吉村道明)の防衛戦に追われることになる。さっそく初防衛戦(3月13日、仙台)の相手は、次期NWA世界王者の呼び声も高い新進気鋭のハーリー・レイスに決定した。

 帰国後すぐ、日本全国を震撼させた「あさま山荘事件」が起きる。あさま山荘(長野県北佐久郡=河合楽器保養所)は日プロが強化合宿用に建設した「軽井沢練成道場」の、すぐ隣の建物。決して人ごとではない…。

 選手一同、巡業中もテレビの画面に皆、クギ付けだった。この事件では機動隊員や民間人が3人亡くなっている。ワールドリーグ戦を控えた3月後半、強化合宿で軽井沢練成道場を訪れた折に、選手一同で事件現場に花束を供えに行ったことを思い出す。

 日プロを離れた猪木さんが、新日本プロレスを旗揚げしたのも、ちょうどこの頃(3月8日、東京・大田区体育館)だった。社長、会長、CEOなどを経て、現在は新日本プロレスの相談役にある私だが、旗揚げしたその日は、日プロの選手として大田区体育館からほど近い、横浜文化体育館で、レイスとUN戦の前哨戦を戦っていた。

新日本プロレス旗揚げで女優の柏木由紀子から花束贈呈される猪木(72年3月、大田区体育館)

 横浜と大田区では、多摩川を挟むとはいえ「興行戦争」と呼ぶにふさわしい距離。控室でも諸先輩から若手選手まで、船出した猪木新日本の話題一色となっていた。

 皆「一体、猪木はどこまでやれるのか?」と高みの見物といった感じではあったが、私はこの短期間で私財を投じつつ道場と合宿所を造り、旗揚げ戦までこぎつけてしまった猪木さんの行動力に驚かされていた。

 猪木さんが去った後、徐々にだが会場の客足が落ちてきたのも確かだ。決して高みの見物をしている場合ではない。

 実はこの時期、人を介して「一緒にやらないか?」と誘いを受けたこともあった。その時、私は「今の自分は日プロを守ることで精一杯で」と断らせていただいた。だが、この現状に不安も感じず“上から目線”で新日本の旗揚げをやゆする日プロ勢の姿勢に、やや不安も感じ始めていた。

 3月30日には、春の本場所「第14回ワールドリーグ戦」が開幕。だが開幕直前になって、さらに日プロの屋台骨を大きく揺るがす大ニュースが発表される――。

日本テレビがプロレス中継打ち切りを発表

 1972(昭和47)年3月31日。春の本場所「第14回ワールドリーグ戦」が開幕した。

 参加メンバーは日本陣営が馬場さん、吉村道明さん、大木金太郎さん、グレート小鹿さん、上田馬之助さん、ミツ・ヒライさん、星野勘太郎さん、そして米国から助っ人参戦したマサ斎藤と私。 外国勢はゴリラ・モンスーン、アブドーラ・ザ・ブッチャー、カリプソ・ハリケーン、ディック・マードックらがいた。

馬場がモンスーンに32文砲(72年5月、東京体育館)

 猪木さんが日本プロレスを去り、新日本プロレスを旗揚げした影響は徐々に大きくなりつつあった。特に猪木さんの試合を中心に番組を編成していたNET(現テレビ朝日)中継は深刻な視聴率低下に悩まされる。

 ならば、実績や知名度で猪木さんに勝る馬場さんをNET中継に登場させれば良い。そんな意見も出始めていたが、そう簡単に事は運ばない。

 NET中継がスタート(69年7月)する際に、日プロと中継の老舗である日本テレビ側との取り決めで「馬場の試合、ワールドリーグの公式戦、インターナショナル選手権、インターナショナル・タッグ選手権は日本テレビの独占中継」という方針が決められていた。

 大木さんや小鹿さん、私がNET中継に登場し、奮闘するものの視聴率の下降は止まらない…。そこで会社側は日本テレビとの取り決めを無視して「4月1日のNET中継から、馬場の試合を放送する」と発表してしまったのだ。

 当時、まだプロレス中継はゴールデンタイムの看板番組。日プロ側にも「強行突破してしまえば、日本テレビも文句は言えまい」という、甘い読みがあったはずだ。

 こうして4月1日のNET中継から、馬場さんの試合、ワールドリーグの公式戦がNET中継で放送されることになった。

 リーグ戦は5月12日の東京体育館大会で馬場さんがモンスーンを破って6度目の優勝。この試合は予定通り、日本テレビで中継された。

日本テレビがプロレス放送打ち切り会見。左は松根光雄運動部長(後に全日プロ社長に就任、72年5月、東京・麹町)

 ところが、急転直下のニュースが飛び込む。この試合中継を最後に日本テレビが、力道山時代から20年近く続く、プロレス中継の打ち切りを発表してしまったのだ…。

 エース・馬場さんの試合をNETに“流してしまった”代償はあまりに大きかった。日プロの裏切り行為に怒り、強引にプロレス中継を終わらせてしまった日本テレビは、翌週から「プロレス名勝負集」として、力道山さんや豊登さん、馬場さん、猪木さんの過去の名勝負を放送して間をつなぎ、7月からドラマ「太陽にほえろ!」をスタートさせたのだった。

 会社の屋台骨を支えていた、日本テレビからの放映権料は消えた。また「全国39局ネット」の日本テレビ中継が消えたことで、地方巡業の客入りは目に見えるように落ちてきた。

日本テレビ打ち切りに対し反論会見する芳の里代表と平井義一会長。危機意識が皆無だった(72年5月、東京・渋谷)


 そんな中、馬場さんと私の東京タワーズが、昨年末からザ・ファンクス(ドリー&テリー)に奪われたままになっていたインターナショナルタッグ王座を奪回すべく、渡米することが決定した。

馬場がドリーに16文キック。惜しくも王座奪取ならず(72年5月、アマリロ)

 日本テレビの中継で、BI砲が奪われた看板王座を、東京タワーズがNET中継で奪い返し、勢いを巻き返そうという計画だ。

 5月16日、JAL62便にて渡米した馬場さんと私は、まずファンクスの地元・アマリロで王座に挑戦するも、1対1からのノーコンテストで王座奪取は失敗。2日後のロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアムで再挑戦が決定する。

馬場さんとの東京タワーズでインタータッグ王座を奪還した坂口氏だったが‥

 1本目は私がテリーのバックブリーカーに沈んだが、2本目はアトミックドロップで私がテリーを押さえる。そして迎えた3本目、馬場さんが豪快なニードロップからドリーを押さえ込んで3カウント。5か月半ぶりに日プロの至宝を奪い返すことができた。この戴冠で、私はUNヘビー級、アジアタッグ、インタータッグと、猪木さんが保持していた3つの王座をすべて受け継ぐことに成功。

 インタータッグ王座戴冠を機に、馬場さんとの東京タワーズを、かつてのBI砲に負けないほどのタッグチームに成長させようと燃えていた。

 ところが帰国後、その馬場さんから衝撃告白を受けることになる――。

食事に誘ってくれた馬場さんから「実はオレも日プロを辞める」

 1972(昭和47)年5月。馬場さんとのタッグ、通称・東京タワーズでザ・ファンクスから至宝・インターナショナルタッグ選手権を奪回。ベルトを手土産に帰国した。

 この時点で私は、NWA認定UNヘビー級、アジアタッグ(パートナーは吉村道明)、インタータッグ(パートナーは馬場)と3冠王に君臨。前年12月に日本プロレスを去った猪木さんの保持していたベルトを、すべて巻くことになった。

 今後は馬場さんとの東京タワーズを、BI砲(馬場&猪木)に負けないタッグチームに成長させていくだけだ。

 仙台(5月19日)でボボ・ブラジル&ボビー・ダンカン組を相手にV1。札幌(7月5日)ではキラー・コワルスキー&ムース・ショーラック組を相手にV2成功。東京タワーズの未来は順風満帆なはず…だった。

坂口氏(左)と馬場との東京タワーズでコワルスキー、ショーラック組を一蹴したが…(72年7月5日、札幌)

 ところが、V2に成功した夜のこと。珍しく「坂口、今晩メシでも食わんか?」と馬場さんから誘われた。場所は日プロ勢が宿泊していた札幌パークホテルだったことを覚えている。

 ホテル最上階のレストラン。馬場さんは「実は…オレも日プロを辞めることにした。今後のことはまだ分からない。ただオレは、日プロよりも日本テレビに恩義があるから」と言う。

 日プロ幹部の独断で、この年3月のワールドリーグ戦から、馬場さんの試合がNET(現テレビ朝日)中継で放送されていた。また昨年末、猪木さんが去った騒動で、選手会長の馬場さんも「途中までクーデターに加担していた」との罪を問われ選手会長を解任(後任は大木金太郎)。確かに居心地が悪そうではあった。

 猪木さんに続き、馬場さんまでが去れば、日プロはどうなるのか?

 入門から5年。リング上でこそ3冠王の私だったが、リングを下りれば、まだ若手に過ぎなかった。力道山時代を知る馬場さん、猪木さんの会社に対する不信感は相当に根強いモノがあった様子だ。

 テレビ中継は日本テレビとNETの2局が毎週放送。プロレスが国民的娯楽だった力道山時代ですら、日テレのみで隔週放送だったのだから、その放映権料は莫大だったはず。実際、私も会場で芳の里社長からファイトマネーを受け取る馬場さんや猪木さんの姿を、何度か目撃していたが、冗談抜きで封筒がタテに立つほどのブ厚さだったことを覚えている。

 馬場さんも猪木さんも、日プロ幹部の浪費癖を指摘していた。事実、幹部の方々は事務所の金庫から、ガバッと札束をワシづかみにして銀座や六本木に直行していた。私や小鹿さん、高千穂(明久=後のグレート・カブキ)、安達(勝治=後のミスター・ヒト)、永源(遙)らも、しばしば幹部の方々に同伴させていただいたものだ。

 プロレス転向と同時に、そうした光景を目の当たりにしていた私などは「プロレスの世界とはそういうモノなんだ」と信じ込んでいたが、力道山時代を知る馬場さんや猪木さんたちにとって、それは当たり前のことではなく、許せぬことだった。

 だがBI砲による会社改革は失敗。猪木さんに続いて馬場さんまでが会社を去ることに…。そして老舗の日本テレビは、馬場さんの試合をNET中継に流したことが原因で中継を打ち切った。

 7月29日、ついに馬場さんは会社に辞表提出。馬場さんは日本テレビと組んで、新団体を旗揚げするとの噂だった。

辞表を提出した馬場は晴れやかな表情で会見(72年7月、赤坂プリンスホテル)

 そんなある日、馬場さんから連絡があり、ホテルニューオータニ(千代田区紀尾井町)のスカイラウンジへと呼び出された。馬場さんは「坂口、オレは日本テレビと組んで、新しい団体を作ることにした」と言う。

 東京タワーズは結局、無敗のまま解散。V2達成後、馬場さんの日プロ退団に伴い、至宝・インタータッグ王座は返上扱いとなっていた。

 まだ東京タワーズには続きがある。馬場さんに呼び出された時、私は馬場さんの新団体に誘われることを直感していた。ところが――。

前の話へ / 連載TOPへ / 次の話へ

さかぐち・せいじ 1942年2月17日、福岡県久留米市出身。南筑高、明大、旭化成の柔道部で活躍し、65年の全日本柔道選手権で優勝。67年、日本プロレスに入門。73年、猪木の新日本プロレスに合流。世界の荒鷲として大暴れした。90年、現役引退。新日プロ社長として東京ドーム興行などを手がけ、黄金時代を築いた。2005年、坂口道場を開設。俳優・坂口憲二は二男。

※この連載は2008年4月9日から09年まで全84回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全21回でお届けする予定です。

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!

カッパと記念写真を撮りませんか?1面風フォトフレームもあるよ