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何かがおかしい…日本プロレスの猪木除名会見は緊迫した空気に包まれた【坂口征二連載#19】

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紹介された奇怪な男、それがカマタさんだった

 1971(昭和46)年3月。カンザス地区移籍第1戦で、私はNWA世界ヘビー級王者ドリー・ファンクJr.に挑戦。日本人初の王座奪取という野望に燃えたものの、1対1から鉄柱攻撃でドリーを大流血させてしまい、そのままノーコンテスト(無効試合)。またも王座奪取に失敗した。

 ドリー戦の後、私をカンザス地区へと誘ったパット・オコーナーから「ユーとタッグを組む男だ」と紹介された奇怪な選手。それはキラー・トーア・カマタさんだった。

 東洋系にもハワイアンにも見える不思議な風貌。上背こそないが、ややポッチャリとした風貌が、アブドーラ・ザ・ブッチャーにも似ているし、明治大の先輩、サンダー杉山さんにも似ている。とにかく不気味だ。

馬場の連続防衛記録をストップし2代目PWF王者に就いたカマタ(78年6月、秋田)

 だがカマタさんはニッコリと満面の笑みで握手を求めてくる。その奇怪な風貌とは正反対に、実に気持ちのいい“好漢”と呼ぶのがピッタリな先輩レスラーだった。

 カマタさんはハワイ出身。奥さんが日本人で、日本人に特別な親しみを抱いてくれている様子だった。試合のない日曜日には、私と利子を自宅に招いて食事をごちそうしてくれたり、アマリロと比べて格段に治安が悪いカンザスで、何かと親身になって力になってくれたものだ。

 カマタさんは、後に国際プロレスや、馬場さんの全日本プロレスに来日して“流血大王”の名で活躍されたが、不思議と新日本プロレスとは縁がなく、結局はカンザス以来、タッグを組むことも戦うこともなかった。

 当時は秘密にしていたが、カマタさんが全日本プロレスに来日していた頃、馬場さんに許可をもらい、こっそりとホテルを訪ねて再会し、懐かしい思い出話に花を咲かせたものだ。

 カンザス地区に定着とはいっても、6月末には日本に帰ることを命じられていた。そのため私と利子は、アパートを探さず、団体のオフィスが入るダウンタウンのホテルで暮らすことにした。

 ただし私はテキサス州やミズーリ州まで遠征に出ることも多い。アマリロ時代は何もないため外出できなかった利子は、今度は治安の悪さに閉口して、私が帰ってくるまでの間、必要分の食料だけ確保して、ガチッとドアの鍵をかけつつホテルに“籠城”していたそうだ。

レイスと戦う坂口(72年3月、仙台)

 5月14日(現地時間)には、次期NWA世界王者候補と騒がれ始めていた中西部地区のUSヘビー級王者ハーリー・レイスに挑戦して大流血戦の末、引き分け。カンザスを離れ、1週間ほどロサンゼルスに滞在した時期には、現地で活躍中だったプロフェッサー・イトーこと、上田馬之助さんとタッグを組んだこともあった。

 これにて計3年8か月にわたる米国修行も幕を閉じる。

 米国生活最後の思い出にと、私と利子はラスベガスに立ち寄り、米国修行で稼ぎ出したお金を元に勝負をかける。結果は…米国で稼いだ貯金を、すべてラスベガスに置いて帰るハメになった。利子はあらかじめ、こうなる結果を予測し、私に内緒でしっかりと500ドルだけを抜き取り、ポケットに隠し持っていた。おかげで助かった。

アロハシャツ姿でワイルドに帰国した坂口氏

 ロスで利子をそのままひと足先に日本へと帰し、私は、いつものようにハワイへと立ち寄る。試合ではなく凱旋帰国に備えてのトレーニングと、日光浴に励んだ。

 そして七夕(7月7日)の午後。私はJAL71便にて9か月ぶりに帰国した。会社側からは記者会見を予定していると聞いたが、あえて私は定番のスーツとネクタイ姿ではなく、派手なワインカラーのアロハシャツに黄色いスラックス、白いスポーツシューズで東京国際空港(羽田空港)へと降り立った。これまでとは違ったワイルドさをウリにしていこうと自己演出してみたのである。

 日プロ勢は当日、和歌山で巡業中。空港には芳の里社長をはじめ、九州山さんと大坪清隆(飛車角)さんが出迎えてくれた。

 いよいよ日本に定着して馬場さん、猪木さんとともに戦い始める。笑顔で芳の里社長と握手を交わした私だが、この時、会社に異変が起きつつあるとは、夢にも思っていなかった――。

猪木さんとのコンビでNWAタッグリーグ優勝!順風満帆のはずが…

 1971(昭和46)年7月7日。4度目の米国修行から帰国した私は、いよいよ日本マットに本腰を入れて定着する。

 7月9日の後楽園ホール大会。セミファイナル(猪木対フレッド・ブラッシー)前にリング上から帰国あいさつを終えて、テレビ放送席でメーンイベント(馬場、吉村道明対ダッチ・サベージ、ボブ・カーセン)をゲスト解説する段取りだ。

 1本目は吉村さんが逆さ押さえ込みでカーセンをフォール。2本目に入ると、途端に外国人コンビのホコ先が放送席の私に向けられる。

 2人は凶器攻撃を繰り返しつつ、こちらに向かってたけだけしい挑発を繰り返す。それもかなりしつこい。ここで黙っているワケにもいかない。

 放送席から立ち上がった私はアロハシャツを脱ぎ捨てサベージにネックブリーカー、革靴のままカーセンに蹴りを入れ大暴れする。最後は馬場さんがサベージに32文ロケット砲をブチ込み、3カウントを奪った。

凱旋帰国した坂口氏が私服で乱入してサベージを首絞め(71年7月、後楽園ホール)

 正式に試合をしたワケでもないのに、私は吉村さん、馬場さんとともに勝どきを上げていた。試合後、10日後の7月19日(後楽園ホール)からシリーズ参戦することが発表された。

 凱旋マッチは、ドン・サベージと一騎打ち。4分24秒、帰国後用の必殺技として温存してきた肩砕き(ショルダーバスター)で快勝した。

ドン・サベージにショルダー・バスターを決める坂口(71年7月、後楽園ホール)

 会社からも馬場さん、猪木さんに次ぐ新世代のエースとして期待されていた。私生活では先輩の星野勘太郎さんの紹介で、青山の紀ノ国屋裏に2DKのアパートを借りて新生活を開始。意外かも知れないが、東京に居を構えたのは、この時が初めてだった。

 オフには代官山に新設されたばかりの道場でみっちりと練習し、道場向かい側の合宿所で腹いっぱいチャンコを食べる毎日。プロレスのことだけに専念していれば良かった時代だった。

 馬場さん、猪木さんの両エースを擁した日本プロレスは、会場が超満員となるのは当たり前。日本テレビ(毎週金曜)とNET(現テレビ朝日=毎週水曜)と2局でゴールデンタイム中継されるなど、テレビの放映権料だけでも、相当に潤っていたはずだ。

 私は馬場さんと同じく、日本テレビの中継のみに登場する契約。NET中継は猪木さんを中心とした編成となっていた。

 ところが、秋の本場所と呼ばれる「第2回NWAタッグリーグ戦」(9月24日開幕)で、私は猪木さんとのタッグで出場することが決定。猪木さんとタッグを組む以上、NET中継にも登場しないワケにはいかない。このリーグ戦を機に、私の試合は日本テレビだけでなく、NETでも放送されることになった。

NWAタッグリーグ戦では猪木とのコンビで初優勝

 リーグ戦は猪木&坂口組のほか、日本勢から馬場&吉村組、大木金太郎&ミツ・ヒライ組、上田馬之助&グレート小鹿組、ヤマハブラザーズ(星野勘太郎&山本小鉄)がエントリー。外国人勢はキラー・コワルスキー&バディ・オースチン組、ボブ・エリス&ハーリー・レイス組、ネルソン・ロイヤル&ポール・ジョーンズ組、ジミー・スヌーカ&スニー・ワー・クラウド組、そしてダルトン兄弟(ジム&ジャック)というメンバーだった。

 順調に勝ち星を重ねた猪木さんと私は、決勝戦(11月1日、東京体育館)でコワルスキー、オースチン組と対戦。1本目は私がブレーンバスターでオースチンを倒し、2本目は猪木さんが卍固めでコワルスキーを料理。ストレート勝ちで優勝を果たした。

NWAタッグリーグ戦を制した2人を猪木の婚約者・倍賞美津子さんも祝福(71年11月、東京体育館)

 大歓声に包まれたリング上には、猪木さんの婚約者・女優の倍賞美津子さんも登場し、大トロフィーに華を添えてくれた。「猪木&坂口組」という若い力の優勝に芳の里社長も上機嫌だった。 順風満帆。暮れのシリーズには米国でライバルだったNWA世界王者・ドリー・ファンクJrも来日が決定。ちまたでも「誰が王座に挑戦するか?」が話題となっていた。

 だが浮かれていたのは若い私だけだったのか…。この直後、日本プロレスは大激震に見舞われることになる――。 

BI砲が負けた…控室はお通夜のようなムードだった

 1971(昭和46)年11月1日。猪木さんとのタッグで第2回NWAタッグリーグ戦優勝。翌11月2日には、猪木さんと倍賞美津子さんの結婚披露宴(東京・京王プラザホテル)に出席した。

猪木と倍賞を祝福する坂口(78年11月、京王プラザホテル)

 破格の1億円という費用をかけた人気プロレスラーと人気女優の披露宴は世間の注目を集めた。まさに日本プロレスの栄華を象徴するような超豪華披露宴だった。馬場さんらとともに出席した私も「そろそろ正式に利子と結婚式を挙げなければ」と思ったものだった。

 年末シリーズにはNWA世界ヘビー級王者のドリー・ファンクJrの参戦が決定。私も米国修行中に3度にわたってドリーに挑戦したが今回は出番なし。3月のUN王座奪取、タッグリーグ優勝、そして結婚と勢いに乗る猪木さんが12月9日の大阪大会でドリーに挑戦することが決定した。

 世界戦に先がけて11月29日の横浜文化体育館大会で、猪木さんと私のNWAタッグリーグ戦覇者チームがドリー&ディック・マードック組と対戦することになった。

 ドリー&マードック組は12月12日の東京体育館大会で、吉村さんと猪木さんが保持するアジアタッグ王座に挑戦することが決定。また馬場さんとのタッグでインターナショナルタッグ王座も保持していた猪木さんは、12月7日の札幌大会でファンクス(ドリー&テリー)相手に防衛戦を控える。その前哨戦的な意味合いも強い。

 ところが猪木さんと私は、ドリー&マードック組に敗れる。1本目、マードックのバックドロップに私が沈み、2本目は猪木さんがコブラツイストでマードックを仕留めたものの、3本目は猪木さんのコブラツイストをかわしたドリーが、バックドロップで見事に3カウントを奪った。

 猪木さんは、どこか調子でも悪いのか? NWAタッグリーグ戦を制した勢いは消えた…。

 さらに札幌大会でも、日本が誇る最強タッグBI砲(馬場&猪木)がファンクスに敗れ至宝流出。試合後の控室は、シーンとお通夜のようなムードだった。

テリーが馬場にスープレックス。BI砲が王座転落(71年12月、札幌)

 王座流出だけが原因ではない。何か皆がトゲトゲしいというか、ヨソヨソしい感じだ。

 12月8日に大阪入りすると突然、芳の里社長から呼び出され「猪木はダメになった…。征二、お前が行け」と、猪木さんの代役としてドリーに挑戦することを命じられた。猪木さんはケガとも、病気とも伝えられたが、とにかく不穏な空気の中、猪木さんの大阪大会欠場と、私が代役としてNWA世界王座に挑戦することだけが告げられた。

 4度目となるNWA挑戦は大チャンスだが、あまりに話が急展開で、万全に闘志を高めるといった感じではない。

 そして迎えた9日の大阪府立体育会館大会。試合前、猪木さんの欠場理由は「右輸尿管結石症」と発表されていた。同時に猪木さんが保持するUN王座、アジアタッグ王座の返上も発表。猪木さんは重病なのか? 控室の様子も明らかにおかしい。ベテラン勢から若手までヒソヒソ話に明け暮れる始末だ。

 国内では初の王座挑戦。それも世界最高峰のNWA王座だ。だが、何か釈然としないままリングに向かった私は、1本目こそアトミックドロップで先制したが、2本目はドリーのバックドロップに沈み、3本目はドリーの人間風車に沈み、王座奪取に失敗した。

猪木の代役で緊急決定したドリーとのNWA戦。大健闘したが…

 NWA世界戦は国内で何度も実現しているが、ここまで唐突なNWA戦は誰も経験していないだろう。ドリーに敗れた私に、さらなる試練が与えられる。3日後(9月12日)の東京体育館大会で、吉村さんとのタッグで、ドリー&マードック組と「アジアタッグ王者決定戦」に出場することを告げられた。

 ドリーとマードックには猪木さんとのタッグで敗れたばかり。吉村さんとのタッグに不安はないが、兄弟ならではのチームワークを駆使するファンクスとは違い、マードックの気まぐれな戦いぶり、そしてケンカ強さにリズムを狂わせられる可能性は高い。

 だがインタータッグに続いて、アジアタッグまで米国に流出させるワケにはいかない。吉村さんも、その表情から悲壮な覚悟を固めている様子は分かる。

 やっちゃるけん!

日本プロレスが猪木を除名

 1971(昭和46)年暮れ。日本プロレスは大混乱に陥る。

 女優・倍賞美津子さんとの結婚披露宴を終えた直後の猪木さんが、札幌大会(12月7日)でファンクスに敗れ、インターナショナルタッグ王座(パートナーは馬場)から転落。直後から姿を消し「右輸尿管結石症」として、欠場が発表された。

 猪木さんは重病なのか…? その時点で事の真相は分からない。

 直ちに猪木さんが保持していたUNヘビー級、アジアタッグの両王座返上が発表される。私は猪木さんのピンチヒッターとしてドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界王座に挑戦(12月9日、大阪)。3日後(12月12日)の東京体育館大会では吉村道明さんとのタッグで、ドリー、ディック・マードック組と戦い、猪木さんが返上したアジアタッグ王座を争うことが告げられた。

 ドリー、マードック組には、猪木さんとのタッグ(11月29日、横浜文化体育館)で敗れたばかり。緻密なドリーと気まぐれなリズムでラフ攻撃を仕掛けてくるマードックのタッグには正直、苦手意識もあった。

 だが至宝インタータッグに続き、伝統のアジアタッグまで海外流出したとあっては一大事。吉村さんと私は悲壮な覚悟でリングへと向かう。

 14分を戦い抜いた末、1本目は私がドリーの人間風車に沈む。2本目は吉村さんがマードックを捕獲するスキに、私がドリーの人間風車をリバースで切り返してフォール。スコアをタイに戻す。

 そして迎えた3本目。ドリーとマードックは素早いタッチを繰り返し、矢継ぎ早にラフ攻撃を仕掛ける。もはや後がない私は、マードックを持ち上げると間髪を入れずにアトミックドロップで叩きつけてフォール。場内の大歓声に包まれつつ、吉村さんと抱き合って勝利を祝った。

アジアタッグを奪取した坂口、吉村組とインター王座を防衛した馬場(71年12月、東京体育館)

 このアジアタッグが、私の国内初戴冠だった。今もあの瞬間の大歓声、そして「征二、よくやった!」と叫ぶ吉村さんの絶叫が忘れられない。

 メーンイベントのインターナショナル選手権では馬場さんがテリー・ファンクを下して7度目の防衛成功。控室では馬場さんが戻るのを待ち、芳の里社長の音頭で乾杯したが、何かいつもと雰囲気が違う。そこに猪木さんがいないからなのか?

猪木除名会見の場は緊迫した空気に包まれた

 馬場さんの様子も何かおかしい。

 その答えは翌日(13日)に判明した。

 東京・代官山の事務所で午後3時から会見を行った芳の里社長、そして日本プロレス協会の平井義一会長、選手会長代理の大木金太郎さんが会見を行い「猪木除名」を発表したのだった。

 理由は何が何だか分からぬモノだった。

編注※猪木が単独で会社(日本プロレス興業KK)の乗っ取りを計画し、会社の書類を無断で持ち出すなどの行動を起こしたことが原因。当初は猪木と選手会長の馬場が手を組み、会社幹部の不正経理を追及、会社改革に乗り出したが、途中から猪木個人の会社乗っ取りに変質していったと報道されている。

 頼みの綱である馬場さんは、この日の早朝から渡米してしまった。どうやら馬場さんと猪木さんの考えが一致せず、会社改革は失敗に終わった模様であるが、真相は分からない…。

 会見後、新体制を祝うという趣旨で、先輩選手の音頭で乾杯などをしつつ、笑顔で報道陣からの写真撮影にまで応じていたが、この時点になっても正直、この会社に何が起きて、こんな事件に至ったのか?私は把握していなかった。

 リング上では馬場さんや猪木さんに交じりメーンイベントに出場。猪木さんの代役で至宝・アジアタッグ王座を巻きつつも、意識や社内での位置づけは入門4年目の「若手」に過ぎなかった。

入院先で会見した猪木(71年12月、渋谷区上原)

 翌日、新聞報道で猪木さん側の言い分を目にして、さらに驚かされることになる。

※14日に退院後、すぐに反論会見を行った猪木は、芳の里社長をはじめとした会社上層部の金遣いの荒さや不正金脈などを徹底暴露。また芳の里社長も、猪木が馬場や上田馬之助らをだまし、会社改革の名の下、事実上の乗っ取りを画策していたことを明かすなど泥仕合に発展する。

 栄華を誇った日本プロレスの崩壊が始まった瞬間だった――。

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さかぐち・せいじ 1942年2月17日、福岡県久留米市出身。南筑高、明大、旭化成の柔道部で活躍し、65年の全日本柔道選手権で優勝。67年、日本プロレスに入門。73年、猪木の新日本プロレスに合流。世界の荒鷲として大暴れした。90年、現役引退。新日プロ社長として東京ドーム興行などを手がけ、黄金時代を築いた。2005年、坂口道場を開設。俳優・坂口憲二は二男。

※この連載は2008年4月9日から09年まで全84回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全21回でお届けする予定です。

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