いいぞアメリカ!永住しようと考えたこともある【坂口征二連載#18】
ハワイで合流した馬場さんが「おい征二!一丁いくか」と麻雀に誘われ…
1970(昭和45)年暮れ。父危篤の知らせを受けた利子(現夫人)が急きょ、アマリロから日本に帰国しなければならなくなった。
ドタバタと慌ただしく、帰り支度を進める中、私はハワイまで利子を送っていくことにした。ちょうど年末に、吉村道明さんや馬場さんら日本プロレス勢がハワイ入りすると聞いていたので、アマリロ修行の報告を兼ねて合流しようと考えたのである。
ハワイに到着すると、日本行きの便を待つ利子をホテルへ送り届け、日プロ勢が宿泊するホテルへ直行。猪木さんは所用で欠席だったが、吉村さん、馬場さんら懐かしい顔と再会を果たした。あいさつもそこそこ、吉村さんや馬場さんは「征二、久々に一丁やるぞ!」と誘ってくる。
海岸でハワイの日光を浴びつつ練習ではない。マージャンである。すでに部屋の荷物を片付け始めている吉村さんは、携帯用の雀卓を広げ始めている。まさか諸先輩を相手に「恋人を待たせてあるので」とも言えない…。
日本へと帰る利子が乗る飛行機の出発時間をチラチラと気にしながら雀卓を囲んだが、まったく落ち着かない。
結局、出発ギリギリの時間にホテルへと舞い戻り、そのまま利子を空港へと送って行った。
利子は「あなた。私を送って行くためだとか言ってたけど、本当は馬場さんたちに会いたくてハワイに来ただけじゃないの?」と怒っている。プリプリとすごいけんまくだ…。
吉村さんや馬場さんに限らず、日本プロレスにはマージャン好きな先輩が多かった。巡業中も、まず旅館に到着すると永源(遙)や安達(勝治=ミスター・ヒト)らが先頭切って、吉村さんか馬場さんの部屋に集結し、ゴム製のマージャン用シートを敷き、旅館を簡易雀荘へと模様替えする。そのまま会場へ出発するまで吉村さん、馬場さん、星野(勘太郎)さんらとマージャンに興ずるのである。
リング上でこそ馬場さんや猪木さんと組み、メーンイベントに出場することはあっても、リング外では、まだ若手扱いだった私など、諸先輩方の誘いを断れるワケもない。猪木さんや山本小鉄さんらは早々に会場入りして汗を流しているというのに、若手の私がマージャンに興じて、試合直前に会場入りすることもあった。
当然、ミスター珍さんやミツ・ヒライさんら先輩方に「坂口君、君は今、そんなことやってる立場じゃないだろう? プロは練習第一で~」などとお説教される。
先輩方の誘いも断れないし、また一方で若手ならではの義務も果たしていない微妙な立場…。当時の私はマージャンに対して、どこか後ろめたい苦い思いがあったものだ。
当時、吉村さんや馬場さんに高い“授業料”を支払ったおかげで、今もマージャンは私の唯一の趣味として継続している。今も週に2~3回は気の合った仲間と雀卓を囲む。
話は脱線したが、ハワイで年越しした私は、71年正月、再びアマリロへと戻った。別れ際、吉村さんから「春のワールドリーグ戦には帰って来いよ」と言われたが、その返事は保留させていただいた。本来なら年末にも、NWA世界王者ドリー・ファンクJrに3度目の挑戦が決まっていたのだが、ドリーのスケジュールで年明けに延期。さらに、年始に予定されていた挑戦も延期して「次の挑戦は3月ぐらいになる」と通達されていた。
この時、すでに4度目の米国修行中。さすがに5度目はない。これが最後なら、思い切り悔いが残らぬよう米国で暴れてから帰国したい。仮にドリーへの挑戦が3月になるならば、私はワールドリーグ戦を欠場し、NWA挑戦を優先させようと考えていた。
アマリロに戻ると、キラー・カール・コックスとの連戦、そしてパク・ソン(パク・ソンナン=朴松男)さんとのタッグも復活させた。当時の米国マットは大抵、3か月で次のテリトリーへと移るのが基本だ。
パクさんも、次のテリトリーとしてフロリダ行きを決めていた。私もそろそろ次のテリトリーを探さなければならない。楽しくも、また充実していたアマリロでの生活が終わろうとしていた。
そんな時、試合会場で一緒になった、元NWA世界王者の大物選手から声をかけられる――。
米国永住を考えていると事件が…
1971(昭和46)年1月。アマリロ地区での活動もあとわずか。そろそろ次のテリトリーを探す必要がある。
そんなある日、会場で一緒になったパット・オコーナー(元NWA世界ヘビー級王者)から「私のホームタウンであるカンザスで試合しないか?」と誘われた。
オコーナーは実力派のベテランとして周囲からも一目置かれた存在。何度か対戦したこともある。要所要所でガチッと関節をフックしつつ、コントロールしてくる昔ながらの選手。正面から思い切りぶつかり合うファイトを身上とする私としては、やや苦手なタイプだった。
だがオコーナーは私のファイトを気に入っていたようで、しきりにカンザス入りを誘ってくる。苦手と思うタイプが、実は自分を気に入ってくれていたりと、とかくこの世界は面白い。
オコーナーからカンザスに誘われた件を、アマリロのボスであるドリー・ファンク・シニアに相談すると、意外なことに「もう少しアマリロにいてくれ」と引き留められる。
駆け引きをしたつもりはない。私は単に、アマリロ地区での試合(だいたい3か月単位で別テリトリーに移るのが恒例)が終わることを見越して、次のテリトリーを探していたに過ぎない。
シニアはさらに「近々、ドリーが帰ってくるから、その時はユーを最優先して王座に挑戦させる」とか「週に1度はカンザスやセントルイスのビッグショーに出場することも認めるから」などと、次々と好条件を提示してアマリロ残留を促す。
アマリロでの生活が気に入っていた私に、断る理由はない。そのまま3月まで残留することが決定した。
しばらくすると、年末に危篤となり、そのまま亡くなられたお父さんの葬儀を終えた恋人の利子(木村=現夫人)がアマリロへと戻ってきた。
利子が帰ってくるのと同時に、今度はリング上でのパートナー、パク・ソン(パク・ソンナン=朴松男)さんが、フロリダ行きのため、アマリロを離れることになった。
たった3~4か月の付き合いだったが「東洋の巨人タッグ」として暴れ回り、タッグ王座も獲得。私生活でも同じアパートに暮らしたほど仲良くしていただいたパクさんとの思い出は尽きない。フロリダに向かうパクさんを、利子ともに見送り「必ずまた、いつかタッグを組みましょう」と握手して別れた。
その後、パクさんと再会したのは新日本プロレス時代の1976年。韓国(釜山、ソウル)で猪木さんとパクさんが一騎打ちを行った際だ。
その時、韓国プロレス側と猪木さんが一触即発のトラブルを巻き起こす。緊迫した空気の中、逃げるように私たちも韓国から帰国したため、5年ぶりの再会となったパクさんとも、ほとんど会話を交わす暇がなかった。
パクさんはそれから数年後に亡くなったと聞く。結局、この時が最後の別れとなってしまった。生きていれば再会して、アマリロ時代の思い出話に花を咲かせたことだろう。それだけに韓国での一件が悔やまれる。
パクさんが去った後、私はアマリロでシングルプレーヤーとして活動再開。そして週に1度はカンザスやセントルイスのビッグショーにも出場するため、収入も大幅にアップした。
広いテキサスで練習と試合だけに没頭。料理や洗濯は利子がやってくれるから私生活でも何ら不自由はない。収入も良い。日本では探すだけでもひと苦労の洋服や靴のサイズも豊富。食べ物も安い。日本に帰らず、このまま米国に永住し、プロレスを続けようと考えたこともある。後に馬場さんからも米国修行中、同じようなことを考えていたと聞いた。
会社の経営に追われることもない。面倒な雑務もない。後輩や部下の面倒を見る必要もない。ただ単に自分のこと、練習やリング上に没頭していればいいなんて最高の環境ではないか?
馬場さんも私も、そんな生活を理想としていた。だがくしくも、この1971年末、日本プロレスを襲った騒動を機に、そんな希望は永遠に失われてしまうのであった。
UN王座奪取と同時に婚約の猪木さんに仰天
1971(昭和46)年3月末。私は前年10月から活動していたアマリロ(テキサス州)を離れ、以前から誘ってくれていた元NWA世界王者パット・オコーナーが取り仕切るカンザス地区へと引っ越した。
この時期、日本では春の祭典「ワールドリーグ戦」が開催されていたが、私はNWA世界王者ドリー・ファンク・ジュニアへの挑戦を理由に参加を断っていた。
3度目となるドリーへの挑戦は、なかなかドリーのスケジュールが合わないため、アマリロでは実現しなかった。
この世界で口約束がほごにされるなんてザラにある。だが、アマリロ地区を取り仕切るドリーの父ファンク・シニアは、口約束を覚えていてくれたのか?私のカンザス移籍の第1戦に、何とドリーとのNWA戦を推薦してくれたのである。異例の大抜てきと言っても良い。
通常、NWA戦は、その地区で実績を積んで名を上げた挑戦者が、数か月に一度、転戦してくる王者に挑戦するという絶対的な流れがある。
ところが私は、1月からシニアの計らいで週に1度のペースで、カンザスマットに上がり続けていたため、すでに知名度もあり、突然の王座挑戦にも違和感がない状態になっていた。
カンザス定着の第1戦でNWA王座に挑戦すれば、プロレスラーとして私の“格”も上がる。そんな私が、そのまま定着すれば、カンザス地区を取り仕切るオコーナーも損はしない。
当時のNWAは、1人の世界王者を中心に各地区のプロモーター同士が見事な“横の連携”で結束を固め、選手を派遣し合い、各地区のプロレスを盛り上げていた。単なる興行戦争とはちょっと違う、プロレスを盛り上げるためのノウハウを持っていたのである。
このNWA戦を終えたら、夏までには日本に帰らねばならない。おそらく5度目の米国修行はないだろう。私は凱旋帰国の手土産として、何としても「日本人初のNWA世界王者」という肩書が欲しかった。
日本では力道山先生以来の伝統であるインターナショナル王座を腰に巻く馬場さんが、絶対的なエースとして君臨。馬場さんのタッグパートナーとしてインタータッグ王者に君臨する猪木さんもエースの座を虎視眈々と狙っている。そこに私が割って入るためにも、大きな勲章が必要だ。
私のNWA世界王座挑戦は3月27日、カンザス州カンザスシティー・メモリアルホール大会に決定。燃えに燃える私の耳に、意外なニュースが飛び込んできた。
私がNWA王座に挑戦する前日(3月26日)、猪木さんがロサンゼルスでNWAが認定するUN(ユナイテッド・ナショナル)ヘビー級王座に挑戦するというのである。
当時のプロレス界で、世界屈指のテクニックとスピード、そしてスタミナを誇っていた猪木さんの実力ならば、敵地といえどUN王者のジョン・トロスに勝ち、王座を奪取する可能性は高い。UNベルトを手にしたら、猪木さんは馬場さんに次ぐエースに王手をかけるであろう。私も負けてはいられない。
そしてドリー戦の前日、ロスから猪木さんが見事、トロスを破りUN王座を奪取したというニュースが飛び込んできた。それだけではない。何とその場で女優・倍賞美津子さんとの婚約を発表したというではないか。何たる華やかさだ…。
様々な衝撃が、一気に頭を駆け巡る中、私は3度目となるドリーとのNWA世界戦のリングへと上がった。セコンドには第6試合でロック・ハンターの中西部地区USヘビー級王座に挑戦(結果は両者リングアウト)したばかりのキラー・カール・コックスがついてくれた。コックスはこの試合後、日本へと遠征し第13回ワールドリーグ戦に参加する。私がWリーグ戦に参加していたなら当然、敵対関係にあるのだが、ここでは話が別。海外マットでは、こうした呉越同舟も珍しくはない。
ドリーとの一騎打ちは3度目。もう、お互いの手の内は読めている。私は不思議なほどリラックスしてリングへ上がった――。
3度目のNWA王座戦!ドリー大流血でノーコンテスト
1971(昭和46)年3月27日(現地時間)。私は米国・カンザス州カンザスシティー大会で、NWA世界ヘビー級王者ドリー・ファンクJr.に挑戦した。
ドリーへの挑戦は計3度目。前夜(3月26日)、ロサンゼルスで猪木さんがNWA認定のUN(ユナイテッドナショナル)ヘビー級王座を奪取。その場で人気女優・倍賞美津子さんとの婚約を発表。私も後に続けと、王座奪取に燃える。
当時の日本プロレスはエースの馬場さんがNWA認定のインターナショナル王座を保持。UN王座奪取に成功した猪木さんが、馬場さんとのエース争いに並ぶ格好となった。
そして私は、いまだ日本人で誰も奪取を成し遂げていない世界最高峰・NWA世界王座を狙う。
ここでドリーを破れば、すべての話題を吹き飛ばす快挙達成だ。プロレス転向以来、計4度もの米国修行に出させてくれた会社や芳の里社長、また古巣である柔道界への面目も立つ。
ゴングが鳴る。セコンドのキラー・カール・コックスに促され、飛び出した私は四つに組み、もつれ合う。ドリーはレッグシザースからのレッグロック、ダブルレッグロックで早くも私の下半身破壊を狙ってきた。
この流れを許すと、そのままスピニングトーホールドへと移行することは明白。流れを断ち切るため、やや強引に寝技から脱出した私は、裸絞めからストマッククロー、さらにドリーの頸動脈にクローをかけつつ、ネックハンギングツリーを連発する。
4回目につり上げ、そのままマットに叩きつけると、すでにドリーはグロッギー。覆いかぶさると簡単に3カウントが入った。
2本目は焦るドリーが、さらに徹底した足殺しを仕掛けてくる。しかも王者らしからぬラフ殺法だ。右ヒザを蹴り上げ、倒れたところに間髪を入れずにニースタンプ。現在のドリーしか知らぬ若いファンからすると意外だろうが、表情こそ淡々としているものの、ドリーは案外とこうしたラフ殺法にも強さを発揮する王者だった。まさに“テキサスの荒馬”だった。
ドロップキック、人間風車を立て続けに食らい、反撃に向け息を整えていたところにレッグロック→スピニングトーホールドを食らいギブアップ。過去2回の対戦同様、勝負は3本目へと持ち越された。
3本目はもうファンク兄弟とのケンカだ。ドリーの鉄拳を避けて場外に出ると、弟のテリー・ファンクが突進して殴りかかってくる。怒った私はテリーを追いかけ回しつつ、ドリーに水平打ちとパンチを叩き込む。
場外にいる限り、いつ背後からテリーに襲われるかも分からない。焦った私は勝負を急ぎ、エプロンでもつれ合うまま、ドリーを顔面から鉄柱に叩きつけて、リングに戻ろうとした。
ところが、この一撃でドリーの額がパックリと割れて大流血。ラフファイトでも、ドリーを圧倒した私は勝利を確信したが、この流血がマズかった…。出血が止まらないドリーの傷を確認したレフェリーが突如、ノーコンテスト(無効試合)で試合終了を告げてしまったのだ。
無効試合のため、王者の防衛数にもカウントされないが、チャンピオンベルトはドリーの腰に巻かれたまま…。私が王座奪取に失敗したという結果のみが残った。
ぼうぜんとする私をヨソに、コックスが猛然とレフェリーに抗議している。そのまま殴り飛ばさんばかりの勢いでテリーとも何やらののしり合っている。
終わった。ここから先、裁定が覆ることなどあり得ない。私は興奮するコックスをなだめつつリングを降りた。
NWA世界王座奪取という大目標は失ったが、明日からまた、このカンザス地区で戦い続ける。
試合後の控室で、私をカンザスへと誘ったパット・オコーナーから「明日からユーとタッグを組む男だ」と、あるレスラー紹介された。ハワイアンとも東洋人とも察しがつかない不気味な風貌の持ち主…。その奇怪なレスラーの正体とは――。
※この連載は2008年4月9日から09年まで全84回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全21回でお届けする予定です。