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米国のレスラー仲間が驚いた〝オリエンタルミステリー〟【坂口征二連載#17】

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初めてのNMW挑戦「勝った」と思った瞬間に…

 1970(昭和45)年10月15日(現地時間)。私はテキサス州アマリロ市スポーツアリーナのリング上から、NWA世界王者ドリー・ファンクJr.が入場するのを待ち受けていた。

 ドリーは父シニア、弟のテリーにガッチリとガードされつつリングイン。その腰には世界最高峰のベルトが巻かれている。当時、日本人でNWA世界王座に挑戦経験があるのは力道山先生、馬場さん、猪木さんぐらいのもの。王座奪取に成功した選手はいない。

ジャック・ブリスコを破り、日本人初のNWA世界ヘビー級王者となった馬場(74年12月、鹿児島)

 後に馬場さんが奪取に成功(74年)するまで、誰もが「日本人初」の栄誉を求め、野望に燃えていた時代だ。

 1本目から勝負をかけた私は、フルスイングの水平チョップを乱打し、地獄突きを連発。セコンドのパクさんが「レッツゴー、サカ!」と絶叫するのと同時に、崩れ落ちたドリーの腹部に、ストマッククローを決めて18分10秒、ギブアップを奪った。

坂口氏は積極果敢にNWA王者のドリーにアタックした

 ドリーの腹に、クッキリと私の手形のアザができているのを見て、勝利を確信した。コーナーにうずくまったままのドリーの腹部に、シニアとテリーが必死に油のようなモノをスリ込んでいる。「何か塗ってるぞ」とレフェリーに抗議したが完全に無視された。

 ドリーより長身の私は終始、上から王者を押さえ込むように攻撃を続けたが、エプロンからロープをまたいでリングインした瞬間、上から押さえつけられリバースフルネルソンに固められ、人間風車で叩きつけられる。迅速なドリーのフォールを返せず3カウントを奪われてしまった。

 決勝の3本目は大荒れだ。焦る私は空手チョップを乱打しつつ突進したが、これにシニアとコザックが「サカグチの空手は反則。今度やったら反則負けだ」とリングに上がって猛アピール。これをレフェリーも了承してしまったのだ。

 空手チョップを封じられた私に対して、ドリーはまたもや人間風車を狙ってくるが、同じ手は食わない。グイッと耐えた私は、リバーススープレックスで切り返し、背中でドリーを下敷きに圧殺した。これは6月、横浜でドリーと対戦した猪木さんが使用した技術をマネたものだ。

 勝利を確信した私は「勝ったぞ!」とアピールしたが、ムクムクと起き上がってきたドリーは、私の背中にドロップキック。コーナーポストに顔面を直撃させた私は、そのままドリーに丸め込まれてジ・エンド。無念の逆転負けで、初のNWA挑戦は失敗に終わった。

 ドリーの王座を狙う挑戦権争いは厳しい。しばらく再挑戦はないと予測した私は、パクさんとの「東洋の巨人タッグ」を本格的に再開した。

坂口とパク・ソン(70年10月、テキサス州ルボック)

 リングに上がるや、柔道着姿の私が大きな石を持ってひざまずく。すると空手着のパクさんが、上段から気合もろとも手刀を叩き込んで石を真っ二つ。そんなパフォーマンスが受けに受ける。

 パクさんと私はタッグ戦線でもファンク・シニアとテリーの親子タッグ、USタッグ王座を保持するミスター・レスリング(ゴードン・ネルソン)、ザ・グラジエーターの白覆面コンビ、リッキー・ロメロ、サンダーボルト・パターソン組らと戦い、かなりの人気を博していた。

 そんな中、11月11日(日本時間12日)、世界王者のドリーが、またもテキサスに里帰りし、ルボック市フェアパークコロシアムで防衛戦を行うことが決定。挑戦者は前日の11月10日、オデッサ市スポーツアリーナ大会で行われる12人参加のバトルロイヤルで決定するという。

 参加メンバーはブル・ラモス、コザック兄弟(ジェリー&ニック)、マンマウンテン・マイク、ボビー・ダンカン、ミスター・レスリング、ゴージャス・ジョージJr.、リッキー・ロメロ、グレッグ・ピーターソン、サンダーボルト・パターソン、そしてパクさんと私だ。優勝者にはNWA世界王座挑戦だけでなく、賞金2000ドル(当時の邦貨で約72万円)まで進呈されるという。

 再び挑戦権を手にするためには親友のパクさんすらも敵だ。私は野望に燃える――。

猪木さんから盗んだ技でドリーに先制

 NWA世界王者ドリー・ファンクJr.への挑戦権をかけたバトルロイヤルは1970年11月10日(日本時間11日)、テキサス州オデッサの体育館で争われた。

 参加選手はブル・ラモス、コザック兄弟(ジェリー&ニック)、マンマウンテン・マイク、ボビー・ダンカン、ミスター・レスリング(ゴードン・ネルソン)、パク・ソン(パク・ソンナン=朴松男)、ゴージャス・ジョージ・ジュニア、リッキー・ロメロ、グレッグ・ピーターソン、サンダーボルト・パターソン、そして私の12人だ。

 リングサイドでは、王者・ドリーが翌日、自分に挑戦する選手を偵察するために陣取る。序盤は普段、タッグを組むパクさんと共闘作戦を取る。コザック兄弟やレスリングをも撃退。パクさんと私、そしてロメロとラモスの4人が残った。

 ところがパクさんはロープ際で先に失格していたマイクに足をつかまれ、場外に引きずり下ろされて失格。続いてロメロにアッパーカットと目潰しを見舞われたラモスも失格。ついにリング上はロメロと私だけとなった。

 リング下のパクさんが「カマン、サカ」と叫ぶので、私はロメロをリング下のパクさんめがけて投げ捨てる。辛うじてリングへと生還したロメロを、ネックハンキング、アトミックドロップで叩きつけ、最後は22分40秒、ベアハッグでギブアップを奪い、オデッサの激戦を制した。

 ファンに囲まれて身動きもできない中、ドリーはようやく警備員にガードされ会場を脱出。この時「サカグチの王座挑戦は予想通りだ」と口にしていたそうだ。

 ドリーへの再挑戦は翌日の11月11日、テキサス州ルボック市のフェアパークコロシアムで行われた。2度目のNWA挑戦とあって、前回よりはリラックスして試合に臨める。セコンドは前回同様、パクさんにお願いし、ドリーのセコンドには父シニアがついていた。

ドリーに再挑戦した坂口(70年11月、テキサス州ルボック)

 試合前、ドリーからの申し出で「空手チョップ禁止」が通達された。私のチョップを恐れたのか? それとも不意のケガで連日、ビッチリと組まれた防衛戦スケジュールに穴があくのを恐れたのかは分からない。日本人レスラーの伝統、そして試合のリズムを作るために多用はしていたが、特に空手チョップを切り札に使用していたわけでもなかった私は、その申し出をすんなり了解した。

 60分3本勝負。空手チョップが禁じ手となったNWA世界戦は、アームロックとブリッジの攻防が続く。ドリーが仕掛ける人間風車を腰を落として防御した私は前回同様、リバーススープレックスで叩きつける。

坂口氏はリバーススープレックスで先制のフォールを奪う

 このリバーススープレックスは以前、猪木さんが横浜でドリーと対戦した際に使用したテクニックを盗んだモノ。前回は叩きつけるのみで終わったが、今回は叩きつけた後、そのまま腕をガッチリとロックし続けていたら、レフェリーのカウントが「3」を数えていた。27分25秒、体固めで私が1本先取に成功した。

 2本目に入ると、ドリーも私も汗まみれ。もはや単純な投げ技すら簡単には決まらない。

 ドリーはシニアの指示で、徹底した足殺しを仕掛けてくる。倒れればヒザにニードロップ、レッグホールド、ヒザの横にパンチ、立ち上がればヒザを蹴り上げてくる。

ドリー・ファンク・シニアを攻める坂口とパク(70年11月、テキサス州ルボック)

 徐々にスタミナが切れてきた私は、スピードが鈍った瞬間、ドリーにバックドロップで投げられる。フォールを警戒し、すぐに立ち上がろうと、足をハネ上げた瞬間、ドリーにまんまと右足首をキャッチされてしまう。ガッチリと私の右足首をロックしたドリーは必殺のスピニングトーホールドに移行する。

 2回転、3回転。右足首に激痛と鈍痛が交互に押し寄せる中、ドリーは7回転、8回転と回り続ける。これ以上、ガマンしてもラチが明かないと観念した私は、ついにギブアップ…。

 勝負は決勝の3本目へと持ち越された――。

ドリーとの死闘は引き分けも…ファイトマネーが跳ね上がった

 1970(昭和45)年11月11日。私は米国・テキサス州ルボックのフェアパークスタジアムで、NWA世界王者のドリー・ファンクJr.と戦っていた。

 同年10月に続き2度目の挑戦。1本目はリバーススープレックスで先取したが、2本目はドリーの必殺技、スピニングトーホールドで右足首を捕らえられギブアップ。勝負は3本目に持ち越された。

ドリーとのNWA世界戦で使われたPR用チラシ(本人提供)

 やや右足を引きずり、動きの鈍った私に対してドリーは顔面パンチを叩き込んでくる。私もカーッと頭に血が上り、狂ったように空手チョップを叩き込んだ。

 事前に「空手チョップ禁止」と通達されていたものの、パンチだって明らかな反則行為。目には目をだ。ところが、セコンドのシニアがものすごい勢いでリングに駆け上がり、レフェリーに抗議している。私にも殴りかからんという勢いだ。

 何とか試合は再開されたが、シニアはリング下から私の足を引っ張ったりと、明らかな妨害工作を始める。これに怒ったのが私のセコンド・パクソン(パク・ソンナン=朴松男)さんだ。リング下でシニアと乱闘を始め、シニアの頭部をイスで一撃。セコンドのシニアが頭から血をダラダラと流し、パクさんと大喧嘩しているのだ。観客席は大騒ぎだ。

鬼の形相で攻め合う坂口氏(右)とドリー

 そんな場外のケンカ騒ぎに気後れしたのか?リング内で世界王座を争うドリーと私は、反対にクリーンファイトに戻り、一進一退の攻防を続ける。最後はドリーが放った3発目の回転エビ固めを、私がカウント1でハネ返したのと同時に、60分時間切れのゴングが鳴らされた。

 まだ一触即発ムードのシニアとパクさんとは対照的に、ドリーと私はごく自然と握手を交わし、肩を抱き合い健闘をたたえ合う。ノーサイドだ。

ドリー(右)と父シニア(69年11月、赤坂)


 ドリーは、その場で再戦を約束してくれた。自分が王者でいる限り、年内にも、また私の挑戦を受けてくれると言う。

 またしてもNWA世界王座奪取はならなかった。だが、うれしいこともある。世界王者・ドリーと堂々、引き分けたことでアマリロでの私の評価が急上昇したのだ。

 それまで、1試合のファイトマネーが200~300ドル程度だったのが、1試合につき1000ドル、また会場の客入りによっては2000ドルぐらいまでハネ上がることもあった。

 まだ「1ドル=360円」の時代。1000ドルといえば日本円で36万円ということ。昨今のプロレス界は景気の悪い話題ばかりだが、当時のプロレスラーは、たったの1試合で一般サラリーマンの月収程度は十分に稼げていた計算だ。

 過去3度の米国修行は、本当に右も左も分からぬ「プロレスラーの卵」としての修行だったが、アマリロではトップクラスの一選手としてブッキングされていた。11月19日にはパクさんとのタッグでコザック兄弟(ジェリー&ニック)からテキサス地区のUSタッグ王座も奪取。パクさんと私の「東洋の巨人タッグ」の勢いは止まらない。

 日本のプロレスラーが海外修行で、十分に稼げていたこの時代。選手個々の力量ももちろんだが、日本プロレスが海外とのパイプを実に大切に扱っていた点も大きい。

 海外ルートのブッカーを務めていたミスター・モトさんやデューク・ケオムカさんらの功績も忘れてはならない。日本プロレスの来日外国人選手への厚遇は米国内でも評判となっていたのだ。

 そういった噂が噂を呼び、全米のプロモーターやレスラーたちからの信頼も高まる。米国のレスラーや関係者の誰もが、日本とのつながりを大切にしてくれたのだ。

 ハネ上がったファイトマネーを手にした私はパクさんと、レスラー仲間が多く住む、やや高級なアパートへと引っ越しすることにした。

 そして交際中の恋人・利子(木村=現夫人)が日本からアマリロへと、はるばるやって来た――。 

利子を呼んだアマリロで〝新婚時代〟

 1970年12月。NWA世界王者・ドリー・ファンクJr.に挑戦して引き分けるなど活躍が認められ、アマリロ(テキサス州)での生活、収入も安定してきた。

 そして約束通り、交際中の利子(木村=現夫人)が日本からはるばるアマリロへとやって来た。

 もちろん会社には内緒だ。私と利子の交際を知っていた芳の里社長も「征二、結婚はあと4~5年ダメだぞ」と念を押していた。皆さん、想像もつかないかも知れないが、私にも女性ファンに応援されていたアイドル時代があったのである。

 今考えれば海外の修行先に日本から恋人を呼んでしまうのだから大胆なものである。今の選手はどうなんだろうか?

 空港まで迎えに行くと、2か月ぶりの再会となる利子は目を丸くして立っていた。

 アマリロの空港にはタクシー1台止まっているワケでもなく、辺りにいるのは馬や牛…。あまりのローカルぶりに驚いたのであろう。銀幕やドラマで目にする大都会の米国とは明らかに違う。当時のアマリロは、まだ西部劇の風景そのままであった。

20歳の利子夫人とのアマリロ生活は坂口にとって貴重な新婚時代だった

 利子が到着してから4~5日は、韓国人レスラーのパク・ソン(パク・ソンナン=朴松男)さんと共同生活を送っていたアパートに利子も加わり3人で生活していた。さすがに悪いと思ったのか?パクさんは気を利かせて別のアパートへと引っ越していった。

 アパートといっても、日本のソレとは違う。敷地内には専用プールや、ちょっとした広場まである豪華版。隣の部屋にはディック・マードック夫妻が住み、当時は「ミスター・レスリング」のリングネームで活躍していたゴードン・ネルソン夫妻も暮らしていた。少し離れた別棟にはバディ・オースチン夫妻もいた。リング上では激しく戦っていても、リング外では家族ぐるみで仲良くさせていただいていた。

左からオースチン、マードック、ミスター・レスリング(G・ネルソン)

 試合のツアーが始まり、遠くエルパソあたりまで遠征すると、私たちレスラーは軽く2~3日は家を空ける。

 当時の利子は、まだ20歳。今考えれば年端もいかない子供だ。
 そんな小娘が日本からはるばると、遠い米国、それもテキサス州のアマリロなどという田舎町で独りぼっちで置き去りにされているのだ。

 欧米人の目から見ると、東洋人はただでさえ幼く映る。そんな利子のことを心配してくれたマードック夫人や、ネルソン夫人らが留守中、何かと利子の面倒を見てくれ、片言の英語でコミュニケーションを取り合っていたらしい。休日には、よくマードック夫妻やネルソン夫妻宅に、利子とともに食事に招待されたものだ。

 試合が終わり、深夜ドライブでアマリロまで帰ってくる日など、利子はよくアパートの前で、私の帰宅を待っていた。

 その様子が米国人には、どうにも理解できない。深夜、アパート前で私の帰宅を待つ利子の姿が評判となり、レスラー仲間からも「あれは一体、どんな意味があるんだ?」「ユーが、そう命じているのか?」など、興味津々に尋ねられた。

 私が「イッツ・ジャパニーズスタイル」と笑って答えると、レスラー仲間は「オリエンタルミステリー」と顔を見合わせて驚いていたものだ。思えば、あのアマリロ時代が、私たち夫婦にとっての新婚時代だった気がする。

 今でも「ジャパニーズスタイル」を守っているかって?…まあ、お互いに年を取った今では、女房が先に寝ていることも多い。

 利子がアマリロへとやってきてから1か月もたたない年の瀬、日本から利子のお父さんが危篤に陥ったという緊急の国際電話が入った。

 すぐに帰国準備に入り、私もプロモーターに事情説明し、1週間の休暇をもらい、ハワイまで利子を送って行くことにした。ちょうど会社の慰安旅行で吉村道明さん、馬場さんをはじめ、日本プロレス勢がハワイに来ると聞いていた。そこに合流しようと考えたのである――。

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さかぐち・せいじ 1942年2月17日、福岡県久留米市出身。南筑高、明大、旭化成の柔道部で活躍し、65年の全日本柔道選手権で優勝。67年、日本プロレスに入門。73年、猪木の新日本プロレスに合流。世界の荒鷲として大暴れした。90年、現役引退。新日プロ社長として東京ドーム興行などを手がけ、黄金時代を築いた。2005年、坂口道場を開設。俳優・坂口憲二は二男。

※この連載は2008年4月9日から09年まで全84回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全21回でお届けする予定です。

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