利子とのデートにはいつも永源遥がついてきた【坂口征二連載#16】
Wリーグ戦初V狙うも…馬場さん、猪木さんを超えられず
1970(昭和45)年3月。米国から帰国して以降、公開練習にイベント出演、河口湖合宿と休む間もない日々が続く。
4月4日には「第12回ワールドリーグ戦」が開幕する。3月31日の午後にはエースの馬場さんがハワイから帰国。その場で記者会見を行うため、吉村道明さんと私が、羽田空港まで出迎えに行くことになった。
ところが、この日の羽田空港は中に入るのも一苦労の大混雑。警察官や警備員、そして異常なまでの報道陣でごった返している。
この日の朝(午前7時33分)、羽田から福岡・板付空港に向かったJAL351便が赤軍派によってハイジャック。俗に言う「よど号ハイジャック事件」が発生したためである。
飛行機から降りてきた馬場さんも、騒然とする空港内の様子に目を丸くしている。吉村さん、馬場さんと私は予定通り、空港内ロビーで会見を行い、ともに優勝を誓い合ったものの、騒然とした周囲の空気に、報道陣も「心ここにあらず」といった感じだった。
数年後、私はまたハイジャック事件に遭遇する。よりにもよって日本プロレスと縁のあった知人がハイジャック犯であったり、今回のよど号事件の赤軍派とは違うが、72(昭和47)年に連合赤軍が立てこもり日本中を震撼させた「あさま山荘」(河合楽器保養所)が、日プロの軽井沢合宿所のお隣さんだったりと、この時代の日プロは社会事件と何かと縁が深かった。それらの詳細は、いずれまた後述させていただく。
慌ただしい日々の中、ようやく4月3日の後楽園ホール大会で前夜祭、翌4日の台東体育館大会からWリーグ戦が開幕した。参加2年目となる私は、前年初優勝した猪木さんに続けとばかりに、初優勝を狙っていた。
パンピロ・フィルポ、ネルソン・ロイヤル、ターザン・タイラー、ポール・ジョーンズに4連勝し勢いに乗ったが、前年準優勝のクリス・マルコフと両者リングアウトで引き分けてやや失速。ある意味、シリーズの目玉でもあった“怪囚人”ザ・コンビクトには裸絞めで快勝。何とか無敗のまま馬場さんと猪木さんを追いかけていた。
ところが5月20日の大阪大会で、とんだポカをやらかす。安全パイと目されていたダッチ・サベージを相手に流血戦を繰り広げる中、制止に入った沖(識名)レフェリーの背中にチョップを叩き込んでしまい、まさかの反則負け…。
脱落しかけた私は5月25日の群馬・前橋大会でドン・レオ・ジョナサンのドロップキック連発に沈んでフォール負け。2年目のVは消えうせ、決勝戦(5月29日、東京・日大講堂)では、そのジョナサンを撃破した馬場さんが優勝した。
5勝2敗1分けという戦績は馬場さん、猪木さんに次ぐ日本勢3位。敢闘賞の盾を頂いたが「米国修行の成果で初優勝」というシナリオを、勝手に頭に思い描いていた私の悔しさは消えない。翌年は私がWリーグ戦に不参加だったため、馬場さん、猪木さんと私が競い合うWリーグ戦は、この年が最後となった。
春の本場所・Wリーグ戦が終われば、すぐにでも目標とするNWA世界王者・ドリー・ファンクJrに挑戦するため米国へ戻りたかった。だが、すぐに行き先が決まるワケではない。
ドリーと接触しやすいテリトリーといえば、ドリーの父であるファンク・シニアが仕切るアマリロ(テキサス州)だ。私は芳の里社長に了解をとり、Wリーグ戦期間中に来日していたミスター・モトさんに、アマリロ地区へのブッキングをお願いしていた。
5月30日に東京・代官山に完成したばかりの新道場で練習を続けつつ、モトさんからの返事を待つ。だが返事は来ない。結局、6月1日開幕の「ゴールデン・シリーズ」にも継続して参戦した。
シリーズ中のある日、ついに吉村さんから海外遠征の話を持ち出された。ところが行き先はアマリロでもテキサス州でも米国ですらもない。全く未知の国だった――。
ラウンド制に変則ルール…英国遠征は苦戦の連続だった
目標はNWA世界王者ドリー・ファンクJr.への挑戦。私はドリーの父シニアが仕切るテキサス州アマリロ地区への遠征を希望していた。だが、ブッキングをお願いしていたミスター・モトさんからの返事はなかなか返って来ない。
そんな1970(昭和45)年7月。吉村道明さんから、短期海外遠征として誘われたのが、何と英国だった。
後々、英国には新日本プロレスから佐山(聡=初代タイガーマスク)や前田(日明)、ライガー(山田恵一)や船木(誠勝)らが海外修行に出向いているが、当時の日本プロレスに英国遠征経験者は皆無だった。
英国のプロレスがどんなモノか? サッパリ分からないし情報もない。ただ主催のテームズテレビ社(英国)から日プロに連絡があり「世界各国のレスラーを集めた『ナショナルデー国別プロレス大会』というイベントを開催するので、日本から代表選手を2人派遣してほしい」と伝えられただけだ。
会社側としても、いきなりエースの馬場さん、猪木さんを未知の英国に派遣するワケにもいかぬ。そこで吉村さんは私に白羽の矢を立てたのだ。
7月19日夕刻、吉村さんと2人、羽田空港からパンアメリカン航空機に乗り込み英国へと出発。だが現在のように東京からロンドンまで直行便があるワケではない。羽田を飛び立った飛行機は、まずは香港へと立ち寄り、その後はタイ・バンコクに着陸という“各駅停車”だ。
バンコクの後、どこの国を経由したのか? もはや覚えてもいないが、飛行機が着陸する度に乗客は減り続け、結局、羽田から終点のロンドンまで計25時間近くも機内にい続けたのは吉村さんと私だけだった。
「イギリスは紳士の国だぞ」と言う吉村さんに倣って、ビシッとスーツにネクタイを決めて出発したのに、現地に着くなり、いきなり上半身裸のコスチューム姿にされ、ロンドン名物の2階建てバスで市内をパレードさせられたのは参った。
7月21日(現地時間)、会場はロンドンのロイヤル・アルバートホールだ。試合はすべて5分6R制。相手を投げ飛ばしてダウンさせても、そのまま攻撃続行は許されず、相手が完全に立ち上がってくるまで待たなければならない。
対戦相手のことよりも不慣れなルールにおびえつつ、私はパット・ローチなる選手に快勝。吉村さんはドイツ系のハンス・ストレンジャーに反則勝ち。ほかにどんな選手が出場していたのかも覚えていない。
吉村さんと2人、少しだけロンドンを観光した後、またパンナムの“鈍行飛行機”に乗り込み、今度は29時間かけて日本へと帰ってきたものだ。
英国遠征からしばらくたった後、ようやくロスのミスター・モトさんから連絡が入り、10月からのアマリロ遠征が正式決定した。待ちに待ったアマリロ行き。これで計4度目の米国武者修行となる。今、考えてみても、よくぞ会社側が許してくれたものだ。
まあ、それだけ馬場さんと猪木さんの二枚看板を擁し、テレビだけでも日本テレビとNET(現・テレビ朝日)の2局がゴールデンタイムで中継。ほんの半年程度の放送期間ではあったが、NETでは若手選手を中心とした30分枠の中継(ヤング・プロレス)まで存在した。会場も超満員が当たり前、週に3回ものプロレス中継があった日プロは放映権料だけでも相当に潤っていたのだ。老舗日本テレビの中継は馬場さんを中心としたインター王座の防衛戦、ワールドリーグの公式戦を放送し、NETの中継は猪木さんを中心とした放送で、それぞれ高視聴率を稼いでいた。後々、このテレビ局問題が、栄華を誇っていた日本プロレスの分裂騒動を招くことになるとは夢にも思わなかった。
アマリロ行きに胸も弾む時期だったが、同時に、私の心を日本へと引き留めるモノがあった。女性問題である――。
「アメリカへ来ないか?」文通で育んだ東宝ニューフェイス・利子との愛
日本中が万博の話題で沸き返っていた1970(昭和45)年夏。4度目の米国修行が決定した。
今度の修行先はNWA世界王者、ドリー・ファンクJrの父・シニアが仕切るテキサス州のアマリロ地区。ドリーの世界王座挑戦を目標とする私の希望が通った形だ。
プロレスラーとして成長するため、日本にとどまっている時期ではない。ところが過去数度の渡米と違い、この時ばかりは心中やや複雑な思いを抱えていた。
実は当時、私には交際中の女性がいた。東宝のニューフェイス(女優・酒井和歌子さんと同期)として芸能界入りし、モデルや女優の卵として活動中だった木村利子という女性だ。プロ格闘家・坂口征夫の母、俳優・坂口憲二の母…まあ手っ取り早く説明するなら、私の女房である。
利子との出会いは69年。初のワールドリーグ戦参加のため帰国していたときのことだ。知人の紹介からグループ交際に発展し、だんだんと恋人のような親密な関係になっていった。出会った頃の女房は、まだ17~18歳だったはずだ。
2人でデートした記憶なんてほとんどない。いつも永源(遙)を含めた3人でドライブしたり、遊びに行っていた。利子が何か用事で途中で帰ってしまったりすると、まるで永源とデートしているようなモノだった…。
利子のお父さんが、大のプロレスファンで、ある時、後楽園ホール大会に招待し、試合後に一緒に食事をさせてもらい、直々に交際の許可をいただいた。
その後、私はデトロイトに3度目の米国修行に出発してしまった。携帯からの国際電話、電子メールなんて遠い未来の話。国際電話だって容易にはかけられない時代だ。私たちは東京とデトロイト間で、せっせと文通で連絡を取り合った。さすがの永源も手紙の中までには入り込んで来ない。
文通で互いの近況を報告し合い、利子は私の記事が掲載された日本の新聞、雑誌などを米国まで送ってくれたものだ。
太平洋をまたいだ文通により、互いのことを理解し合った私たちは、70年春の帰国時から本格的に交際をスタートさせた。この頃、初めて“永源抜き”で2人きりでデートした覚えがある。永源がいなきゃいないで妙に緊張して疲れた…。
プロレスラーとして、アマリロ行きは大チャンスだ。別に結婚の約束までしたワケではないが、また無期限で利子を日本に置いていくのにも、気が引けたのである。
そこでアマリロへと出発する直前「オレが現地で落ち着いたら、アメリカに来ないか?」と尋ねてみた。
数年後、利子と結婚する際、これといってプロポーズの言葉をかけてはいない。今となれば、この「アメリカに来ないか?」がプロポーズの言葉に該当したのだろう。
利子は即決で「はい」と返事をしてくれた。
利子はこの時、弱冠20歳。今、考えてみれば年端もいかない子供である。私もまた若かった。
私がプロレスラーとして修行中の身ならば、利子も東宝ニューフェイス出身の女優として勉強中の身だった。これから羽ばたこうと準備をしている段階で、私の強引な誘いを受け、何のツテもない米国、それも、かなりローカルなテキサス州アマリロへと連れていかれてしまったのである。
私の「一緒にいたい」というワガママで、利子が抱いていた女優、モデルとしての夢を断ち切ってしまった。随分と後になって聞かされたが、当時、所属の芸能事務所からはかなり厳しくしかられたらしい。当然だろう。
この時、私が断ち切ってしまった利子の夢、つまり芸能の仕事を、何の因果か? 次男の憲二が受け継いでくれたのは、何ともうれしく、そして不思議な気がする。
利子の返事を受け取った私は9月30日、JAL52便でまずは単身、米国へと旅立った。やがてテキサスへと追いかけてくる利子のためにも、私は米国で結果を出さなければならない。
馬場さんそっくり男、パクさんとタッグ
1970(昭和45)年9月30日。私はJAL52便で羽田空港を飛び立ち、計4度目となる米国修行へと出発した。
ロスを経由してテキサス州アマリロへ。現地ではアマリロ地区を取り仕切るプロモーター、ドリー・ファンク・シニア(NWA世界王者・ドリー・ファンクJr.の父)が待っていた。
以前にもテキサス州で修行した経験はある。だが、それは“鉄の爪”フリッツ・フォン・エリックが仕切るダラス地区。ダラスとアマリロは同じテキサス州ではあるが、当時のNWA加盟テリトリーとしては珍しく、それほど選手の交流はなかったと記憶している。
プロモーターの嗜好だろう。フリッツが大型で荒くれタイプの選手をダラスに揃えたのに対し、シニアは小柄なテクニシャンや、腕に自慢のケンカ屋タイプをアマリロに揃えていた。
アマリロ産のNWA世界王者・ドリーは全米をサーキットする義務があるためアマリロに帰ってきて防衛戦を行うのは月に1~2回。弟のテリー・ファンク、ディック・マードックとダスティ・ローデスの“ジ・アウトローズ”らが主力の人気選手となっていた。
10月3日、アマリロの会場であいさつを行い、4日のエルパソ大会から早速、戦闘開始だ。
会場へ到着すると、シニアから「今夜から、ユーとタッグを組む男だぞ」と紹介された選手を見て驚いた。身長は私より高く、その風貌は何と馬場さんソックリ。そう、韓国からアマリロへと遠征していたパク・ソン(パク・ソンナン=朴松男)さんである。
パクさんは大変温厚でおとなしい性格だった。片言の日本語を話せるため、コミュニケーションも円滑。ともにアパートを借りて一緒に住んでいた時期もある。後に、韓国でパクさんと猪木さんが戦い(1976年)、トラブルが起きた時には、間に挟まれ心苦しい思いをしたものだ。
米国人の目から見れば日本人も韓国人も同じようなモノ。その日からパクさんと私は「東洋からやって来たビッグコンビ」として紹介され、パクさんは空手着、私は柔道着を着てリングに上がり、タッグチームとして活動し始めた。実際、パクさんの手刀には、すさまじくゴツゴツとしたタコのような跡があり、その空手の実力は決して見せかけではなかった。
第1戦の相手はジェリーとニックのコザック兄弟だった。1本目はパクさんが取り、2本目はパクさんが取られ、3本目は私が払い腰、ネックハンギング、アトミックドロップのフルコースでニックを叩きつけて快勝した。
そしてアマリロ到着早々、大チャンスが巡ってくる。10月15日のアマリロ・スポーツアリーナ大会でドリーが防衛戦を行うことが決定。10日のアマリロ大会で、その挑戦者を決めるべく、私とボブ・グリフィン、ブル・ラモス、サンダーボルト・パターソンの4選手によるワンナイトトーナメントを開催することになったのだ。
日本に定住せず、会社側に直訴して4度目となる米国修行に出たのも、すべてはNWA世界王者に挑戦するためだ。燃えに燃えた私は、1回戦で“鮫男”グリフィンにリングアウト勝ち。続く決勝戦では“酋長”ラモスを裸絞めで下し、ついに世界最高峰・NWA世界王座への挑戦権を手にした。プロレス転向から3年、ついにつかんだ大チャンスだ。日本への国際電話で、芳の里社長に報告すると「負けてもともと。無理して勝つことを考えるより、堂々と男らしく内容のある勝負をしろ!」とゲキを飛ばされた。
恋人の利子(木村=後の夫人)には「こっちの生活が落ち着いたら(アマリロに)来い」と伝えてあったが、こんなにも早く大チャンスが巡ってくるなら、もっと早くアマリロに呼んでおけば、と後悔したほどだ。
そして迎えた10月15日。セミファイナルのNWA世界ジュニア戦で、王者・ダニー・ホッジが挑戦者のニック・コザックを退けたのを見届けると、私はセコンドのパクさんに先導され、NWA世界戦のリングへと上がった――。
※この連載は2008年4月9日から09年まで全84回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全21回でお届けする予定です。