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昭和48年4月1日ついに猪木さんと合流【坂口征二連載#20・最終回】

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ハワイ挙式の予定を狂わせたハイジャック犯に見覚えが…

 1972(昭和47)年夏。日本プロレスを退団し、日本テレビとともに新団体旗揚げの準備に入っていた馬場さんから呼び出しを受ける。

 場所はホテルニューオータニのスカイラウンジ。馬場さんはプロレス転向以来、兄貴のように慕ってきた先輩。私を新団体に誘ってくれると直感した。

 ところが馬場さんは一言も「一緒に来い」と言わぬばかりか「坂口、お前は日プロに残って会社を守れ」。私としては「はい、そうですか」とも言えず、心中は複雑だった。当時、私が馬場さんから「2000万円もの支度金を積まれた」なんて報道もあったが、それが真相だ。

 一部の人からは「お前はプロレス転向以来、馬場さんに世話になっていたのだから、何も言われなくても馬場さんに付いて行くべきだ」とも言われた。だが、私をプロレスの世界へと誘ってくれた芳の里社長に対する恩義も大きい。裏切るワケにはいかない。

 だが馬場さん、猪木さんという両横綱が抜けた状態で、日プロを守ることはできるのか? 実際、馬場さんが日プロを去った後、露骨なほど客足は落ちていた。日本テレビの中継は4月に打ち切られ、頼みの綱であるNET中継の視聴率も芳しくない。

 大木金太郎さん、グレート小鹿さん、そして私らが踏ん張ってはいたが、やっぱりBI砲を両横綱とするならば大関、関脇に過ぎなかった…。ファイトマネー、給料の遅配が始まったのもこの頃からだ。

シークに反撃する坂口。UN王座を奪回(72年9月、大阪)

 9月に入り、アラビアの怪人、ザ・シークが鳴り物入りで初来日。シークはデトロイト地区で修行時代に、散々戦ってきた相手。日本国内でも「火を噴く怪人」「まだ見ぬ強豪」として期待感が高まっていた。そして9月6日の東京・田園コロシアム大会。UN王座を懸けてシークと対決するも、ラクダ固め、凶器攻撃で左目を突かれた上、火炎攻撃でヤケドを負わされフォール負け。王座から転落してしまった。

 話題のシーク登場は、日プロの観客動員、そしてNET中継の視聴率巻き返しに一役買った。だが、そこで私が敗れてしまったことで「やっぱり馬場、猪木がいないと…」とファンに印象づけてしまったのも事実だ。

 翌日の大阪大会でシークにストレート勝ちし、UN王座は奪回したものの、改めてエースの責任を問われることになる。9月に入ると「第3回NWAタッグリーグ戦」が開幕。昨年、猪木さんとのタッグで優勝していた私は、米国修行から凱旋帰国した高千穂明久(後のグレート・カブキ)と組んで出場する。

猪木と倍賞の1億円結婚式(71年11月、東京・西新宿の京王プラザホテル)

 前年、猪木さんは、このリーグ戦で優勝後に女優・倍賞美津子さんと結婚式を挙げた。それに刺激されたワケでもないが、私も長年、待たせたままだった同棲中の恋人・利子との結婚を決意していた。

 シリーズ終了と同時に婚約発表会見を行い、11月シリーズが始まる前のオフにハワイへ飛んで挙式しようというプランだ。燃える私は高千穂とのタッグで好発進。決勝戦(10月31日、大阪)ではハミルトン兄弟を下し優勝。高千穂は初、私は2度目のVを遂げた。

坂口氏(右)と高千穂がNWAタッグリーグ戦を制覇(72年10月、大阪)

 前年の猪木さんがそうしたように、1億円もの豪華挙式といきたいところだったが、その頃の日プロはファイトマネーの遅配が当たり前の状況…。私も貯金を切り崩して生活していた。思い返しても人生で一番、金に困っていた時期だ。

 よって豪華な結婚披露宴など望むべくもない。私と利子は仲人夫妻、親戚や親しい友人10人のみをパックツアーでホノルルに招待して挙式することにした。日プロからは永源(遙)が出席してくれることになった。

挙式直前にハワイを満喫する坂口と利子さん(72年11月、ハワイ・ハナウマビーチ)

 いよいよハワイに出発することになった11月6日、事件が起きる。

 当時のハワイ便は夜の出発。よって昼間から夕方まで、代官山の道場でみっちりと練習。チャンコを食べつつ、テレビを見ていると、羽田空港で飛行機がハイジャックされたとのニュースが飛び込んできた。

 新婚旅行を兼ねたハワイ行きも、ハイジャック事件によって予定が狂ってしまう…。

 チッと舌打ちしつつ、ニュースを報じるテレビの画面を眺めていると、犯人が逮捕され、無事に事件は解決したとのことだ。捕まった犯人は、どこかで見たことがあるような顔だ。その時だ。合宿所の電話がけたたましく鳴る。電話の主は東スポの米国特派員(当時)芳本(栄)さんだ。

「坂口君、テレビ見たか? ハイジャック犯はポールさんじゃないか?」

 私は思わず、チャンコを食べるはしを落とした――。 

苦手だった猪木さんと夢を語った

 1972(昭和47)年11月6日。挙式と新婚旅行を兼ね、婚約者の利子とともにホノルルへと出発するその日、思わぬ事件が起きる。

 羽田発福岡行きの日航機が羽田空港で覆面をした男にハイジャックされたというのである。ホノルル行きの出発は夜9時過ぎ。昼過ぎまで道場で練習していた私は、合宿所でチャンコを食べつつテレビのニュースにくぎ付けとなり、事件によりホノルル行きの予定が狂うことを心配していた。

 キューバ亡命を要求していた犯人は、ほどなくして逮捕。テレビに映し出された犯人の顔は、どこか見覚えのある顔だ。すると合宿所の電話がけたたましく鳴る。東スポの海外特派員(当時)芳本(栄)さんからだ。

 芳本さんは「坂口君、あれポールさんじゃないか?」と息を切らす。

 ポールことポール中岡さんとは、我々、日本プロレス勢がロサンゼルス入りすると、何かと世話になっていた在米の日本人だ。力道山時代から、日プロとは縁が深かったらしく、私もよくロスでポールさんとゴルフやマージャンに興じたものだ。

 なるほど。テレビを見ると確かに、ハイジャック犯の顔はポールさんだ。一体、何が原因でハイジャックなどに及んだのか? 今もってサッパリ分からない。後に服役を終えたポールさんから1回だけ連絡をもらったことがあるが、現在は音信不通だ。

 事件後の報道によってポールさんの人物像を知る。もともとは映画業界ともつながりがあり、ポールさんの行動をモデルに東宝が植木等主演の「無責任男シリーズ」を製作したことなど、様々な逸話を知ることになった。

晴れて挙式を挙げたものの、直前に大騒動に巻き込まれた坂口氏

 すったもんだでホノルルへと到着。挙式を済ませ、永源(遙)とビーチで体を焼きつつ、慌ただしいながらも予定通りに帰国した。帰国後、すぐに郷里の久留米(福岡)で披露宴を行い、後に改めてプロレス関係者、柔道関係者をお招きし、東京でも披露宴を執り行うつもりでいた。

 だが猪木さん、馬場さんが去った日プロは、ファイトマネーの遅配が当たり前という末期的状況。人間関係もギクシャクしており、とても東京で披露宴という状態ではない。東京での披露宴は今もって先延ばしになったまま37年の月日が過ぎてしまった…。新婚早々、利子にも迷惑をかけ、お世話になった方々に不義理をすることになる。

大木とのコンビでインタータッグ王座を獲得した坂口氏。プロゴルファーの尾崎将司も祝福(72年12月、蔵前国技館)

 リングの上ではUN王座やアジアタッグ王座(パートナーは吉村道明)を防衛。12月2日には馬場さんと返上したままになっていた至宝インターナショナルタッグ王座も、大木金太郎さんとのタッグでジン・キニスキー&ボボ・ブラジル組との王座決定戦を制し、新王者に君臨していた。だが観客動員もテレビの視聴率も一向に上昇する気配はない…。

 ついにはNET(現・テレビ朝日)側からも「このままでは来年(73年)3月で中継を打ち切る」と宣告された。

 この状態でテレビ中継まで打ち切られたら、日プロの命脈は断たれたも同然。そんなある日、明大時代の同級生・マサ斎藤の仲介で、猪木さんと会うことになった。

六本木で再会した猪木と坂口氏。金はないが希望に満ち溢れていた

 場所は六本木のすき焼き店「らん月」。猪木さんは昨年末(71年)、日プロを去った後、私財を投入して道場を設立。新日本プロレスを旗揚げして奮闘していたが、テレビ中継がない苦しさ、大物外国人選手を呼べない苦しさと戦っていた。

 正直に告白すると、日プロ時代、猪木さんは最も遠い存在の先輩であった。馬場さんや吉村さんとは巡業中にマージャンをしたり、プライベートでもいろいろと親交があったものだが、猪木さんはどこか一匹狼的なところがあり、巡業中もマージャンなどで時間を潰すタイプではなく、ヒマがあったら練習に没頭しているタイプ。どこか近寄り難いイメージを抱いていた。猪木さんが去った後、マスコミを通じて「片手で3分」「両手で1分」なんてののしり合い、泥仕合を繰り広げたこともあった。

 だが、ゆっくりと話し合ってみると「今後のプロレス界はこうしなくてはならない」「プロレスラーはまず練習ありきで~」など、私も少なからず抱いていたプロレスの理想、そして「最強のプロレス」を熱く語る人であった。

 当時、猪木さんもまた苦境にあったはず。だがその目はらんらんと希望に満ちており、いわゆる「覇気」がみなぎっていた。

 お互いにカネはないが、夢と希望に満ちあふれたうたげ。「また会おうや」と言う猪木さんと六本木の路上で握手して別れた。

まとまりかけた猪木さんとの新団体構想に大木さんから猛クレーム

 1972(昭和47)年暮れ。マサ斎藤の仲介で再会した猪木さんと「理想のプロレス」「プロレスの未来」について語り合ったのもつかの間、NET(現・テレビ朝日)の三浦専務、辻井専務(いずれも当時=故人)から呼び出され、最後通告を受ける。
「このままではプロレス中継は存続できない。猪木と一緒にできるか? それが中継存続の条件だ」と宣告された。

坂口とテレビ朝日の辻井博氏(顔写真は三浦甲子二氏)

 NET側の言葉を、そのまま芳の里社長に報告すると「その件はお前に任せる」と一任された。

 猪木さんが日プロを去った後、クーデター事件だなんだと騒動となり、さらに猪木さんも反撃に出て日プロ側を徹底非難。そんなわけで日プロ社内でも、猪木さんに対するアレルギーは強かった。

 だが、今はそんなこと言ってられる状況ではない。テレビ中継、そして何より会社の存続のためにも猪木さんと合流し、新団体を設立する案を(グレート)小鹿さんと相談した。

 この頃になると、極秘裏に猪木さんと頻繁に会っていた。日プロの選手会も小鹿さんの説得により、新日本との合併に了承してくれた。

 猪木さんもNET側から、日プロ勢との合流を条件にテレビ中継開始を持ちかけられていた。もとはといえば一緒に戦っていた仲間。異存はない。

 私が懸念していたのは一点。猪木さんが「日プロの腐敗」を訴えていた時、標的にされていた芳の里社長の件だ。私にとってプロレス転向を誘ってくれた恩人でもあり、新日本との合併案を「交渉役は坂口に」と一任してくれたことに対する責任もある。

 NETの三浦専務、そして猪木さんに合併の条件として「芳の里社長を新団体の会長に」と提案したら、意外なほどアッサリ了承してくれた。日プロ社員も、そのまま新団体で受け入れてくれることになった。

 NETで中継される新団体の件は、トントン拍子に進む。新団体の名称も「新・新日本プロレス」とか、原点回帰で「日本プロレス」を名乗るなど、様々な案が浮上していた。

 2月8日には新宿の京王プラザで会見を行い新団体の設立を発表。すでに日本テレビの協力の下、全日本プロレスを旗揚げしていた馬場さんはいないが、私としては猪木さんと日プロ勢が再び同じリングに上がることをもって、71年末から続いたゴタゴタ、騒動をようやく総括できた気分になっていた。

猪木と坂口が新団体設立を発表(73年2月、西新宿の京王プラザホテル)

 ところが数日後、急転直下の出来事が…。韓国から帰ってきた大木金太郎さんが「力道山先生の作った日本プロレスを守るのが筋」「今さら猪木とは一緒にはできない」と合併案に大反対。合併に向けてまとまっていた選手会の意見をも、選手会長の権限でホゴにしてしまったのだ。

 いつの間にか芳の里社長までもが、合併反対派の象徴に祭り上げられている。テレビ中継存続、会社存続のため年末から精力的に動き回っていた私は、完全に裏切り者扱いされている始末だ。

 しかも2月16日の後楽園ホール大会の試合前には、私がいないスキに大木さんが報道陣を集めて「新団体拒否声明」まで発表してしまう。もう最悪だ。

 中継存続に向けたNETとの約束。そして猪木さんと交わした約束も、今さら破るワケにはいかない。そもそも、ここまで客足が落ちた今、テレビ中継なしで日プロが存続できるワケがない。それでも大木さんは「我々こそ本流」と、神風が吹くと信じて疑わない様子だった。

 私の中で何かが吹っ切れた。もう日プロを去るしかない…。人間関係も最悪だった。

 2月22日の大阪大会。大木さんとの関係がギクシャクしたまま、ジョニー・バレンタン&キラー・カール・クラップ組に敗れ、インターナショナルタッグ王座から転落。

 大木さんは、翌2月23日の後楽園ホール大会で私に無断で会見を行い「坂口、木村(聖裔=後に健悟)、小沢(正志=後のキラー・カーン)、大城(大五郎)の4人のみが猪木の新日本プロレスに移籍する」と発表。もうあっけに取られるしかなかった。

大木の緊急会見に坂口氏はあきれるしかなかった…

 日プロとの契約は3月31日まで。ここから先はもう、抜け殻のような私がリングに上がっていた気がする――。

金曜8時のワールドプロレスリング中継とともに新日38年の歴史が始まった

 1973(昭和48)年。テレビ中継の存続、日本プロレスの存続のため、私は新日本プロレスとの合併に東奔西走する日々だった。ところが韓国から帰ってきた大木金太郎さんによって合併案はご破算に…。いつの間にか私は裏切り者、まるで“売国奴”のようにされていた。

 人間関係も最悪だった。3月2日(横浜文化体育館)にはジョニー・バレンタインに敗れてUNヘビー級王座からも転落。少し前まで3冠王だった私には、もう吉村道明さんとのタッグで保持するアジアタッグ王座しか残っていなかった。

 だが、その吉村さんも会社内のゴタゴタに嫌気がさしていたのか?翌3日の大阪・近大体育館(大阪)大会を最後に引退が決まっていた。

 引退当日、吉村さんと私はアジアタッグ王座を返上。その日のうちに新王者決定戦が行われ、キラー・カール・クラップ&カール・フォン・スタイガー組を破ったグレート小鹿さんと松岡巌鉄組が新王者となっていた。もはや日プロに未練はない。私と小沢(正志=後のキラー・カーン)、木村(聖裔=後に健悟)、大城大五郎の4人のみが、猪木さん率いる新日本プロレスに移籍することは、すでに大木さんの口から発表されていた。

引退試合に臨む吉村道明のセコンドに就いた坂口(73年3月、東大阪)

 日プロとの契約は3月31日まで残っている。後でグダグダ言われないためにも、キチンと契約だけは守りたい。

 当時のプロレス界は、現在とは比較にならぬほど殺伐とした空気があった。日プロ離脱が決まっている私たち4人が「試合中の事故」を口実に、どんな目に遭わされるかも分からない。極端な話、観客の前で集団リンチに及び、その選手の商品価値を消し去ることさえ可能なのだ。

 さすがに心配されたのだろう。猪木さん側からも「何か適当な理由でもつけて、残りの試合は欠場したほうがいい」と欠場を勧められたほどだ。

 だが私にも「会社を裏切ったワケじゃない」という意地がある。仮に何か仕掛けられたら、どんな手段を使ってでも反撃するとハラをくくっていた。大体、日プロ内に、私をネジ伏せられる者がいるのか? 当時の私は相当に殺気立っていた。

 日プロのラストマッチは3月8日の栃木・佐野大会。もはや日プロ勢と同じ控室、同じ空間にいられる状態ではない。私たち4人は、まず都内から自家用車で体育館そばのビジネスホテルへと向かい、部屋で着替えると、試合直前に会場入りした。あとは通路に張り出された対戦表に従って試合を行うまでだ。

 第1試合で羽田光男(後のロッキー羽田)と対戦した小沢はバックブリーカーで快勝。第2試合で伊藤正男と対戦した木村は時間切れ引き分け。ところが第3試合で桜田(一男=後のケンドー・ナガサキ)と対戦した大城が、ケンカまがいの攻撃で顔面をボコボコにされ、リングアウト負け。顔面血だらけとなり控室へと戻ってきた。

大木とのタッグで日プロ最後の試合を戦う坂口(73年3月、栃木・佐野)

 やはり何かが違う。私はセミファイナルで大木さんとタッグを組みクラップ&ルーベン・ファーレス組と対戦。大木さんとのコミュニケーションなど皆無。異常な緊迫感が漂う中、3本勝負のゴングが鳴らされた。

 1本目こそクラップのブレーンクローにやられたが、2本目は大木さんがファーレスをフォール。3本目は私がファーレスを破り勝利した。

 試合終了のゴングが鳴った瞬間、リングを下りた私は控室へは戻らず、そのまま会場外に待たせておいた自家用車に乗り込みホテルへ直行。これが日プロとのお別れとなった。メーンでは高千穂(明久)がバレンタインを破り、新UN王者となったそうだが、当然、見てはいない。

 ホテルでシャワーを浴び、着替えを済ませると一路、車を飛ばして東京・世田谷の新日本プロレス合宿所を目指す。この日の夜から小沢、木村、大城の3人が新日本の合宿所入りすることが決まっていたからだ。

 道に迷いつつ、深夜に新日プロの合宿所に到着すると、中から山本小鉄さん、木戸(修)、藤波(辰巳=後に辰爾)、小林(邦昭)らが飛び出してきて、全員が拍手で我々4人を出迎えてくれた。3人を合宿所に預けた私は、ひと安心して目黒のマンションへと帰宅した。

 翌日、3人を伴い代官山の日プロ事務所を訪ね、芳の里社長に「今日限りで辞めさせていただきます」とあいさつした。小言は言われたが、筋はキチンと通したつもりだ。

あいさつを終えた坂口氏はメーンに乱入し猪木を救出(73年3月、大田区体育館)

 そして3月30日、新日プロの旗揚げ1周年記念興行(東京・大田区体育館)であいさつを行った私は、4月1日の佐賀・鹿島大会から、新日本プロレスの一員として戦い続けることになる。ちなみに日プロは4月20日の群馬・吉井町大会を最後に活動を停止した。

大騒動の末、坂口氏はようやく新日プロに合流した(73年4月、佐賀・鹿島)

 そして4月6日の金曜午後8時から、NETの「ワールドプロレスリング」枠で、新日プロの中継がスタートする。第1回の放送は栃木・宇都宮スポーツセンターからの生中継だった。

 テレビ中継がつき、命脈を保った新日本プロレスも来年で創立38年を迎える。時間帯は変われど現在も新日プロ、そしてプロレス中継が存続しているのは、あの時、大英断を下してくれたNETの、今は亡き三浦、辻井両専務のおかげだ。今も感謝の念は堪えない。この場を借り、改めてお礼を言いたい。

 ここから先、隆盛へと向かう新日プロの話、猪木さんとモハメド・アリの試合をめぐる裏話、数々の選手離脱騒動、クーデター事件の真相、現役引退と経営者として会社を率いた社長、会長時代の秘話、この後に誕生する征夫(長男=格闘家)と憲二(次男=俳優)との話、13年ぶりにリング復帰した真相、坂口道場の設立…まだまだファンの皆様に、お話ししたいことは山ほどある。

 だが紙面編成の都合ということもあり、1年と8か月にわたる連載も、ここらでいったん、ペンを置かせていただく。いつの日か読者の皆様に「格斗半世紀・第二章」を語る日がくることを楽しみにして。 (完)

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さかぐち・せいじ 1942年2月17日、福岡県久留米市出身。南筑高、明大、旭化成の柔道部で活躍し、65年の全日本柔道選手権で優勝。67年、日本プロレスに入門。73年、猪木の新日本プロレスに合流。世界の荒鷲として大暴れした。90年、現役引退。新日プロ社長として東京ドーム興行などを手がけ、黄金時代を築いた。2005年、坂口道場を開設。俳優・坂口憲二は二男。

※この連載は2008年4月9日から09年まで全84回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全21回でお届けしました。

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