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契約更改でモメるにはモメるなりの理由があったんだ【下柳剛連載#13】

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交渉次第で給料が上がるんなら、誰だってやるでしょ?

 現在のプロ野球は野球協約の第173条で「球団又は選手は、毎年12月1日から翌年1月31日までの期間においては、いかなる野球試合又は合同練習あるいは野球指導を行うことはできない」と定められていて、その期間の練習は選手の自主性に委ねられている。

 だから、契約さえ済んでいれば基本的に何をしてもOK。それこそオレがプロ入りした当初は、ダラダラと12月を過ごして、1月に入ってようやく体を動かすという選手も少なくなかった。

 ただ、体は正直なもので、あまり休みすぎると動かなくなる。普段はろくに体を動かさないお父さんが子供の運動会で張り切っちゃって、走った途端にふくらはぎがブチッ…っていうような話をよく聞くでしょ? それと一緒。もちろん投手なら肩を休めることは大事だけど、動かしてもいい場所は動かしておいた方がいい。それに、シーズン中に感じた肉体的な課題や弱点に正面から取り組めるのも、野球をしなくていいこの時期ならでは。無理もできるしね。

シーズン途中で先発に転向した2000年は、オフの契約更改で代理人交渉を行った

 プロ野球のオフは長いようで短い。そんな限られた時間を有効活用する意味でも、主に12月に行われる契約更改交渉は、けっこう煩わしかったりする。オレのように納得するまで5度も6度も7度も球団事務所に足を運ぶタイプは特に。

 だから、1999年8月の労使交渉で「弁護士有資格者に限る」という条件付きながら、契約更改交渉に代理人の同席を認める答申が出されて、2000年オフから運用されることが決まったときは心から喜んだ。以前から個人的に「日本もメジャーみたいに代理人が球団と契約の話をしてくれるようになればいいのに」と考えていたこともあって、真っ先に飛びついた。

下柳の代理人・上杉昌隆弁護士(2000年12月、日本ハム球団事務所)

 読者の中には「日本ハム時代の下柳は、毎年のように契約更改でモメてた」って記憶している人も多いかもしれない。モメていたのは事実だから否定はしないけど、モメるにはモメるなりの理由があったんだ。

 当時は「ホールド」という記録もなく、中継ぎ投手の働きぶりを評価するのが今より難しい時代でもあった。前にも書いたように、65試合で147イニングを投げた97年の契約更改では、球団から「前例がないから評価のしようがない」って言われたほどだから。

 実際に交渉を重ねて契約した金額も、極めてあいまいなものだった。初回提示額と比べると一目瞭然で96年は150万円増、97年は1500万円増、98年は2300万円増といった具合だ。交渉次第で給料が上がるんなら、誰だってとことんやるでしょ? 何も「金の亡者」じゃなくたって。

球団側の〝代理人アレルギー〟がすごかった…

 2000年の契約更改交渉を代理人同席で行う旨を日本ハム球団にファクスで伝えたのは11月20日のことだった。すでに球界全体で認められていた制度だったし、球団側もOKしていたので、すんなり事が運ぶかと思っていたら、そうは問屋が卸さなかった。「代理人アレルギー」とでも言ったらいいのかな。オレが日本のプロ野球における代理人交渉のトップバッターだったこともあるんだろうけど、球団側の拒絶反応には相当なものがあった。

初の代理人交渉には多くのメディアが取材に訪れた

 オレが代理人として依頼したのは弁護士の上杉昌隆さん。早稲田大学の法学部卒で、言うまでもなく弁護士資格は持っている。決められたルールにのっとった人選で、文句を言われる筋合いもない。なのに球団側は、2日後に代理人の変更要請をしてきた上、一切の下交渉をしないとか、当初予定していた同月27日の初回交渉を延期するといったことを通告してきた。

 なんとか初回交渉にこぎつけたのが12月4日。ただ、その中身は交渉とは程遠いもので、はなから球団幹部は聞く耳を持ってないっていうか、めちゃくちゃなことを言ってた。「下柳は自分に都合のいいことばかり言っている」とか「年俸に見合う働きをしていない」とかさ。最後には「調停でも何でもすればいい」と捨てぜりふまでされた。

 実際問題として、代理人うんぬん以前にモメる要素はあったんだ。その年は6月までにリリーフで23試合に登板したんだけど、いまいちパッとしなくて。そうこうしてるうちに、投手コーチだった森繁和さんから「シモは先発の方が向いてるんじゃねえか」って言われたこともあって、シーズン途中に先発転向。このときの決断がオレにとっては後々プラスになるわけだけど、まあその辺はおいおい。

森繁和投手コーチ

 で、調整を兼ねた3試合の二軍戦先発と一軍での中継ぎ登板を挟んで7月1日の西武戦に先発して7回1失点と好投。5年ぶりの先発勝利で調子を取り戻したオレは、8月にプロ初完封を含む4勝を挙げて月間MVPも初受賞したりで、終わってみれば36試合で8勝4敗という成績だった。そりゃあ、リリーフで3年連続60試合以上に登板していたことを考えれば物足りないかもしれないけど、先発ローテーションを担えることは数字でも証明した。

 球団も、その辺の評価をどうしたらいいか分からなかったのか。はたまた契約更改交渉の席に代理人を連れてきたオレに増額を提示するのが嫌だっただけなのか…。どちらの側に立つかで意見も分かれるところだろうけど、球団の提示額とオレの希望額には、最初から大きな隔たりがあった。

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しもやなぎ・つよし 1968年5月16日生まれ。長崎市出身。左投げ左打ち。長崎の瓊浦高から八幡大(中退、現九州国際大)、新日鉄君津を経て90年ドラフト4位でダイエー(現ソフトバンク)入団。95年オフにトレードで日本ハムに移籍。2003年から阪神でプレーし、2度のリーグ優勝に貢献。05年は史上最年長で最多勝を獲得した。12年の楽天を最後に現役引退。現在は野球評論家。

※この連載は2014年4月1日から7月4日まで全53回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全26回でお届けする予定です。


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