ボクは投手として入団したが、3日後に打者転向した【駒田徳広 連載#3】
まったく話を聞いてくれなかった長嶋監督、藤田さんにだけ相談して横浜入り
「ボクはどうすればいいんでしょうか」。1993年、チームで居場所をなくしてしまったボクは、前監督の藤田元司さんを訪ねていた。
FAを使って他球団へ移籍すべきなのか、それとも巨人にとどまるべきなのか。ボクが巨人に残っても同じ一塁手の落合さんが入団してくるかもしれない…。チーム事情を考えるとボクが放出される可能性は高かった。
そこでマネジャーを通じて「長嶋監督の考えを聞きたいんです」と、話し合いを申し込んだものの「まだシーズン中だからそういう話はできない」とやんわりとはぐらかされた。仕方なくシーズン終了直後、ジャイアンツ球場での秋季練習中、外野をランニング中の長嶋監督に駆け寄り「監督とお話がしたいんです」と申し出ても「まだ日本シリーズ前だから」。長嶋監督との話し合いはあきらめざるを得なかった。
途方に暮れたボクは受話器を取り藤田さんの家へ電話をかけていた。ボクにとっての藤田さんはオヤジのような存在だ。度が過ぎて一線を越えてしまえば猛烈にしかられたが、それ以外では細かいことを言わず、自由奔放にやらせてくれた。ボクが落ち込んでいる時は「どうした、何か悩みでもあるのか?」と相談に乗ってくれ「俺が話をつけておいてやるから余計な心配をするな。おまえらしくないぞ!」とクヨクヨ考えるタイプのボクを勇気づけてくれたものだった。
そして、この時も藤田さんはボクの相談を親身になって聞いてくれた。ボクには巨人への愛着も強かったが、このままでは出場機会も減り、選手生命を縮めてしまうのではという危機感があった。藤田さんは「こうしろ、ああしろ」とは言わなかった。それでも思いの丈をすべて吐き出したことでボクは胸のつかえがとれ、決心が固まった。結局、この件で相談したのは藤田さんただ一人だった。
11月2日、FA権行使の手続きをとった。阪神、ダイエー、ロッテ、西武からも連絡をいただいたが、藤田監督の下でヘッドコーチをしていた横浜・近藤監督から電話連絡を受け「お世話になります」。移籍先はあっさりと決まった。
その年の納会、巨人の選手として出席する最後の行事で中畑さんはボクにこう言った。「俺の教えたことをしっかり守って、横浜でも頑張れよ!」。思わずボクはずっこけそうになった。何だかそれまで悩んでいたことがバカらしくなってしまった瞬間だった。
ただ「頑張れ」じゃダメ!育成にはハッキリとした目標が必要だ
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