史上初のプロ初打席満塁本塁打!〝満塁男〟が生まれた日【駒田徳広 連載#4】
僕の初打席満塁弾を喜び実家に連絡してくれた国松二軍監督の思いやり
1983年のシーズンが開幕した。初の一軍ベンチ入りを果たしたボクは、自分が後楽園球場のグラウンドに立っているのが信じられない気持ちだった。それでも「負けゲームに代打で出て、三振してまた二軍だろうな」なんて思っていたから、そんなに緊張はしなかった。後楽園での開幕戦の異様な雰囲気を、肌で体験できただけで満足だった。
しかし、思いもかけない事態となる。開幕2戦目の試合前の練習中に、中畑さんが右手首を骨折したのだ。それでも一塁手には山本功児さんも控えていたので、自分が先発するとは夢にも思っていなかった。ところが、周りのムードが何だかおかしい。助監督の王さんも、この日はしきりに声をかけてくれた。そして試合直前になってボクの「7番・一塁」での先発出場が発表されたのだ。ギリギリまで発表を遅らせたのは、ボクを緊張させないための藤田監督の配慮だったのだろう。
初打席はいきなり初回、大洋先発の右田さんから2点を先制して、なおも一死満塁という場面で回ってきた。ボクは何が何だか分からぬまま打席に立ち、あっという間に追い込まれてしまった。それでも真っすぐに振り遅れてファウルとした後の4球目のカーブを打って…。ボクは打球が右翼席へ吸い込まれていくのをぼうぜんと見つめていた。
史上初の初打席満塁本塁打。そんなボクの活躍を何よりも喜んでくれたのが二軍監督の国松さんだった。すぐさま実家に連絡してくれて、ボクの母に「おめでとうございます。でも、これからです。大事なのはこれからなんです。どうぞこれからも息子さんのお尻を叩いてやってください」と言ってくれた。なかなかできることじゃないと思う。国松さんはそうやってボクたちを我が子のように育ててくれていた。
また「これは一生ものだぞ。大事に取っとけよ」と言って、通路に張り出されていたその試合のメンバー表をOBの関本四十四さんがこっそりはがして手渡してくれた。そこには「7番・一塁」の欄に書かれていた中畑さんの名前が二重線で消され、ボクの名前が書き込まれていた。
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