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読書はノイズ、新聞もノイズ、VIVAノイズ

1か月に読む本ですか? そうですねー、今は4~5冊くらいですかね。え、そんなに読んでるのかって。いやいや、驚かれても…、だって、たったの4冊ですよ。働いていると時間が足りなくて。大学生時代、書店でバイトしていると、社割で本が買えたんです。しかも給与天引きなので、財布を気にせず、本を買えるってのがうれしくてねぇ。実際に振り込まれる現金はわずかでしたが、んなこたぁどうでも良かった(笑)。あのころは月に20冊くらいは読んでいたと思います。

やっぱり働き出してからはそうはいきませんね。ええ、みなさんも同じでしょうが、記者の仕事もやっぱり疲れます。しかも、原稿を書いてデスクに直されるのが仕事ですから、テキストへの愛着みたいなもんは減ってしまいましたね。それでも、デスクに直してもらって、紙面になった自分の原稿を見ると、仕事したんだなーっていう充実感はあって、1面を書いた日なんかはちょっと気分がいいわけです。

記者の仕事をしていると、「それじゃ文章を書くのが上手なんですね」と言われることが結構ありますけど、それはちょっと違いますねー。原稿がうまい記者もいることにはいますが、記者の能力は文章力よりも情報力。ネタを掴めるかどうかで評価されるところが大きいんです。これは先輩から受け売りなんですが、新聞記者は料理人と一緒で、ネタが良ければシンプルに塩でいただく。ネタが良くないときのほうが、食わせるために何らかの調理が必要になるってことです。だから基本的にはみんな良いネタを求めて豊洲市場に行くわけですが、違う市場でもっとおいしくて面白い〝幻の魚〟を探そうとするのが東スポ記者って感じです(笑)。

情報の目利きになるには、本物を知ると同時にノイズをたくさん浴びていることが大事だと思いますね。一見、フツーの人には役に立たない情報でも、もしかしたら役に立つ届け方があるかもしれない。こんな言い方をしたら会社の偉い人に怒られるかもしれませんが、「役に立たないことが役に立つ」という逆転現象もワンチャンあるんじゃないかって思います。宇宙人やUFOを1面に持ってくる東スポの存在意義ってどう考えても、一般的な「役に立つ」からかけ離れたところにある気がするんですよね、それか遥か彼方の銀河系のどこか(笑)。

UFOの日の一面

最近、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』って本を読んだんです。「お前はすでに月に4~5冊読んでいるから関係ないだろ」なんて野暮なこと言わないでくださいよ。私はもっと優雅に読書を楽しみたくて、紅茶にマドレーヌを浸したあとの『失われた時を求めて』を知りたい(笑)。でも、日々押し寄せてくるのは仕事と疲労感と睡魔ばかりでですね、文学作品は後回しになってしまうことが多いです。

で、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の著者、三宅香帆さんは2000年代以降、インターネットの普及によって「情報」と「読書」のトレードオフが始まったと指摘しているんですね。

「情報」と「読書」の最も大きな差異は、前章で指摘したような、知識のノイズ性である。
つまり読書して得る知識にはノイズ――偶然性が含まれる。教養と呼ばれる古典的な知識や、小説のようなフィクションには、読者が予想していなかった展開や知識が登場する。文脈や説明のなかで、読者が予期しなかった偶然出会う情報を、私たちは知識と呼ぶ。
 しかし情報にはノイズがない。なぜなら情報とは、読者が知りたかったことそのものを指すからである。コミュニケーション能力を上げたいからコミュニケーションに役立つライフハックを得る、お金が欲しいから投資のコツを知る――それが情報である。
 情報とは、ノイズの除去された知識のことを指す。

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(2024年、集英社新書、205~206p)

忙しさのあまり、ノイズが邪魔になる気持ちは痛いほどよくわかります。本当は最短距離で家に帰って眠りたい。それなのに疲れている日ほど不思議と飲みに行っちゃうんですよ(笑)。この話をすると「あんた本当にバカだねぇ」って言われるんですけど、自分の中ではわりと答えがあって、むしろノイズを浴びるために飲み屋で誰かと会話しているところがあるんです。ノイズが邪魔だと思う時点で興味とか好奇心の幅を絞りこんじゃっているモードになっているわけで、そんなときこそあえて他人というノイズを浴びて、エイヤ!って絞りを開放するんです。すると私というレンズに最も光が入る状態になってシャッタースピードが速くなり、手ブレを防ぐことも可能になります。ええ、カメラで例えてます(笑)。

話がだいぶ脱線しましたが、読書にも似たような効果効能がございまして、三宅さんはこんなことを書いています。

本のなかには、私たちが欲望していることを知らない知が存在している。
知は常に未知であり、私たちは「何を知りたいのか」を知らない。何を読みたいのか、私たちはわかっていない。何を欲望しているのか、私たちはわかっていないのである。
だからこそ本を読むと、他者の文脈に触れることができる。
自分から遠く離れた文脈に触れること――それが読書なのである。

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(2024年、集英社新書、234p)

さすが、良いことをおっしゃいますね。私なんかはこの一節を読んでいて、勝手に中島みゆきの『糸』が脳内に流れてきました。沁みましたわー(笑)。

ところで、みなさんは新聞をどのように読まれていますか? え、読んでない!?それはちょっともったいない気がしますね(苦笑)。一般的に「情報」がメインの媒体である新聞を読むことを「読書」とは呼びませんよね。でもね、最新のニュースならスマホで見られる2024年の今、前日までの情報しかない紙の新聞が「読書」体験に近づいていってもいいんじゃないかとも私は思うんです。

スマホやパソコンで見るニュースでもSNSでもレコメンド機能のおかげで自分に最適化されたものばかりでしょう?でも、紙の新聞を実際に開くと自分に関係がなさそうなニュースがたくさん載っている。多分、それらも全部ノイズなんです。自分の感覚とはまるで違う世界が昨日も一日回っていた。ニューヨークは晴れでロンドンは雨だった。長崎は今日も雨だった。それを認識できただけでも十分だと思うんですが、普段読まない人からするとやっぱりコスパが悪いんですかねぇ…ムダなことが楽しいのに(苦笑)。

一方で気になっているのは、最近の新聞の「エモい記事」をめぐる問題。日本大学危機管理学部の西田亮介教授は「データや根拠を前面に出すことなく、なにかを明確に批判するのでも賛同するわけでもない、一意にかつ直ちに『読む意味』が定まらない、記者目線のエピソード重視、ナラティブ重視の記事のこと」をエモい記事として批判的に論じているんですね。これって新聞に「情報」を求めるならすごく真っ当だと思うんです。で、読まれなくなりつつある新聞が安易に読者に寄り添わんとして、そうなっているんだったら本質を見失っていて本来的な読者に向けてヤバいんじゃないかって気がしていて注視してます。(東スポnote編集長・森中航)

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