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小学校3年生のとき母親が家を出て行った【高田延彦連載#2】

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父子家庭で育ち〝心の腸捻転〟に…

 幼少期、私は父子家庭で育ちました。母親が家を出て行ったのは小学校3年生の時。突然「出て行くわよ」と言われて、しばらく泣いてばかりいました。しかも、事情はよく分からないけど「出て行く」って宣言されてからしばらく家にいたんですよ。1週間くらいの嫌な猶予期間があった。

 ある親しい人から「ノブさんって普通じゃねえよな」って言われたことがあるんです。「心が腸捻転だよね」って。自分でも「そうだよね、普通じゃないよな、俺の人格は」って納得してしまった。もしかしたら「心が腸捻転」になったのは、その時のダメージもあったんじゃないかと。多かれ少なかれ、心に与えた影響ってのは結構なものがあったと思う。

小学校6年生時の高田氏(左から4人目)。明るく礼儀正しいが、心に傷を負った少年だった

 世間の目を気にするのも、その時に強くなったんだと思います。私は学級委員長をやっていたんですが、母親が家を出て行った翌日、クラスの友人を全員1人ずつトイレに連れて行って「俺んちの母ちゃん出て行ったんだよ。誰にも言うなよ」って言ったんです。皆の前で言えばいいのに、全員を1人ずつ呼んで言ったっていうのがどういう感情の動きだったのか…。我ながらいまだに理解できない。おそらくいろいろ噂されるのが嫌で、変なプライドもあり、コソコソされるのも嫌だったからでしょう。

 そういう気質は他の部分でも出ていました。野球は小学校の6年間やっていたんですけど、監督があいさつに厳しかった。帽子を取って必ず「こんちは」「さよなら」とか言うように教えられた。するとそれが習慣づいて、近所の人からも「あそこの子はあいさつがちゃんとできていい子ね」と言われる。すると私は「あいさつをするとそういうふうに見られるんだ」と察して、よりきちんとあいさつをするようになった。

最初のヒクソン戦。握手してあいさつをかわす高田氏(1997年10月、東京ドーム)

 もともとかもしれないけど、母親の一件があってから、さらに人の目を気にするようになった。そういう中で「あいさつをちゃんとできるだけで、周りから見たら『いい子』になっちゃうんだから、あいさつはちゃんとやり続けよう」と思うようにもなった。そういう考え方って、やっぱりねじれてますよね。ここで「心の腸捻転」みたいなものが芽生え始めたのかもしれない。そういう気質が、最初のヒクソン戦で負けた後の自分を追い込む結果になってしまった。

 そして母親が出て行った後、父親と2人の生活が始まりました。

野球にかわってプロレスに夢中

 うちは父親よりも母親のほうが背が高かったんです。幼稚園の入園式の写真とか見ると、ほかのお母さんより頭がひとつ出ていました。親父は身長160センチないくらい。真面目な人で「無遅刻無欠勤」の賞状が何枚もあった。「曲がったことが嫌い」っていうのが口癖で酔っ払うとよく言ってましたね。

 日本酒をレンジでチンして熱かんにして飲みながら、こたつでそのまま寝ちゃうような人でした。でも、酒豪のうちには入らない量でしたね。体も小さかったから…。私の酒豪は突然変異じゃないですか(笑い)。こんな業界に入ったせいもあるし、完全に後天的な酒豪ですね。

 話がそれましたが、もともと私は野球少年でした。でも中学に入ってすぐに親父が一度病気で倒れてしまい、親戚に預けられて通学時間が長くなっちゃったんです。それで中学に入ってすぐに野球は辞めました。小学6年生の時に長嶋茂雄さんが引退して、野球への熱が冷めていましたしね。

 野球熱と入れ替わるように、プロレスにのめり込んでいきました。当然「レスラーになろう」なんて気持ちはなかったし、なれるわけないとも思っていた。でも「猪木すげーなー、猪木かっこいいなー」という気持ちがすごくあった。そのころは金曜夜8時に新日本、土曜夜8時に全日本と毎週(地上波放送で)見られた。今と環境は違うし、ゴールデンタイムでやってるんだから、与える影響力も違う。スーパースターを作りやすいですよね。

 そういう状況だからむくむくとアントニオ猪木への憧れが膨らみ始めた。あのころはビル・ロビンソン、ストロング小林、タイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンと名勝負を連発していましたから。大木金太郎さんとの試合もよく覚えています。

高田氏がよく覚えているという猪木VS大木戦(1974年10月、蔵前国技館)

 その後は異種格闘技戦ですよね。私が中学に入ったころから始まって2年生の時にモハメド・アリ戦(1976年)があった。異種格闘技戦はやっぱりスペシャル感があった。やけに多いセコンドがピリピリ感を醸し出していて、いつもと違う空気が画面から伝わってきた。今振り返ると「そこの伝え方がうまかったなあ」と思うんです。イベントの雰囲気というか「ヤバい感じ」が、テレビを通してちゃんと全国の人に伝わっていた。

 とはいえその時期はあくまでも見る側。レスラーになろうなんて思いもしなかった。そんな私がレスラーになることを決意した日。それは中学2年の冬だったと記憶しています。

小学校6年まで野球を続けたが、プロレスとの出会いが人生を変えた(右から4人目が高田氏)

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たかだ・のぶひこ 1962年4月12日、神奈川・横浜市出身。80年に新日本プロレスに入門。81年5月の保永昇男戦でデビュー。84年に新団体UWFに移籍。第2次UWFを経て、91年にUWFインターを設立し「最強」の称号を得る。新日本プロレスとの対抗戦は日本中を熱狂させた。解散後はPRIDEに戦場を移し、ヒクソン・グレイシーら強豪と激闘を展開。98年に高田道場設立。2002年11月24日の「PRIDE・23」(東京ドーム)の田村潔司戦を最後に現役を退く。引退後はPRIDE統括本部長に就任してタレントとしても活躍。夫人はタレントの向井亜紀。

※この連載は2016年11月22日から12月29日まで全22回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全11回でお届けする予定です。


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