オリックスのフロントとは監督就任要請時から〝溝〟があった【石毛宏典連載#15】
やむなく事情を打ち明けたことを「信用ならん」と非難されるのは納得できなかった
2003年4月20日夜、札幌市内のホテルで翌日からの日本ハム3連戦をもってオリックス監督を解任することを通告された。監督2シーズン目が開幕してからわずか20試合でユニホームを脱ぐことになった。
記者会見で岡添裕球団社長は「昨年の成績やオープン戦を含め、トータルで判断した。交代は早い方がいい」と理由を説明した。就任1年目は50勝87敗3分けの最下位で球団史上最低勝率(3割6分5厘)を更新してしまった。そして、2年目も7勝12敗1分けの最下位と苦しい戦いが続いていた。結果がすべての世界だ。成績不振を理由に解任されることは仕方がない。
ただ、この解任劇は私と一部のフロント首脳との信頼関係が築けなかったことも大きな原因だった。実は就任要請を受けた01年9月から早々とぎくしゃくしたムードが漂っていた。
1998年オフにダイエー(現ソフトバンク)の二軍監督を辞任した私はNHK、スポーツ紙の評論や講演活動を行っていた。そんな時にオリックスから監督就任の打診があった。私はNHKでメジャー中継の解説をしており、その内容を評価してくれたのだという。
オリックスとは何の縁もなかっただけに最初は驚いた。ただ、縁もゆかりもない球団から監督就任の話が来るということは石毛という人物を純粋に評価してくれてのことだろう、と考えた。まず私はオヤジと慕う根本陸夫さんの元に行った。根本さんは99年4月に他界していた。墓前に監督就任の話をもらったことを報告し、奥様に相談した。「主人も喜んでいると思うよ。頑張りなさい」と背中を押してくれた。その翌日に内諾の返事をした。
ひと悶着があったのはこの直後だ。9月中旬、NHKから米大リーグのポストシーズン取材で渡米してほしいという依頼が来た。監督に就任すれば10、11月は秋季キャンプ、編成会議などの大事な仕事で忙殺される。長期間、日本を離れるわけにはいかない。球団からはシーズンが終了する10月5日までは口外しないように言われていたが、そこまで内緒にしていたらNHKにも多大な迷惑をかけてしまう。担当者に監督の就任要請を受けていることを打ち明けて渡米の話を断った。
この時、すでに仰木彬監督が勇退し、私が後任監督という報道も出ていたためNHKも「監督就任のニュースを放送してもいいですか」という。最終的には球団が難色を示したため放送されなかったが、球団首脳はオリックス本社からの伝言として私にこう言った。「内部機密を漏らす人間は信用ならん」――。
各社が報道しているということは球団の誰かが情報を漏らしているということではないのだろうか。私も多くの取材を受けたが、すべて「そういう話はない」と答えていた。そんな状況でお世話になっていた会社にやむなく事情を打ち明けたことを「信用ならん」と非難されるのは納得できなかった。私は「それなら監督の話は白紙に戻しましょう」と申し入れた。
戦力不足で勝てない責任を押し付けられるのを避けたかった
妻は明らかに落胆していた。すでに情報が漏れている状況で、私が3年間、仕事をさせてもらったNHKにやむなく監督就任の件を打ち明けた。これに対してオリックス側が「内部機密を漏らす人間は信用ならん」と不快感を示した。私は監督就任の白紙撤回を申し入れた。就任を打診された場には妻も同席しており、自分のことのように喜んでくれた。それだけに妻には申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
その後、オリックスから何も連絡がなかったので監督の話は完全に消滅したものと考えていた。しかし、2001年シーズンのオリックス最終戦が行われた10月5日に岡添裕球団社長から連絡があった。「監督就任会見をするので神戸に来てほしい」。私が「もう、その話はなくなったと思っていました」と話すと岡添社長は「ぜひ石毛さんにやってもらいたい」と言う。
私は契約期間を3年間とすることとダイエー(現ソフトバンク)の二軍打撃コーチをしていた立花義家を招聘することを要望した。この2つの条件が認められたので再び監督就任を承諾。紆余曲折の末に10月9日の就任会見となった。
契約期間を3年としたのはオリックスは若くて実績のない選手が多く、戦力を整えるのに時間がかかると考えたからだ。立花は西武時代に一緒にプレーしており、口数は少ないが非常に練習熱心だった。引退後は会社員をしていたが、私がダイエーの二軍監督に就任する際に打撃コーチとして呼んだ。3冠王を獲得する松中信彦を熱意ある指導で育てるなど信頼できるコーチだ。
そして、就任してすぐ私はフロントに「戦力を整えるのは球団の仕事。私は与えられた戦力でグラウンドで戦うことに専念する。責任分担をはっきりさせましょう」と申し入れた。田口壮などの主力が続々と退団し、戦力的に非常に厳しい状況だった。私の本音として戦力不足にもかかわらず勝てなかった責任を押しつけられるのを避けたかった。この年のドラフト会議にも出席せず、フィールドマネジャーに徹する姿勢を球団内外にアピールした。
まず私の仕事は若手をレベルアップさせることだ。2月の春季キャンプでは谷佳知ら主力選手約15人は本来なら二軍が使用する球場で彼らの自主性に任せるメニュー。残りの45人はメーン球場で鍛え上げた。立花らコーチ陣にもできるだけ選手の練習量を増やすように指示した。
キャンプからはっきりとレギュラー組とそうではないグループに区分けすることで若手に競争意識を持たせようとした。レギュラーとなるためには45人の中でトップクラスにならないといけない。周りの人間は全員がライバルだ。この激しい競争を勝ち抜けば技術的にはもちろん精神的にタフになる。
いろいろな手段を駆使して戦力の底上げを図ろうとしたものの1年目のシーズンから厳しい現実を突きつけられることになった。
※この連載は2012年5月8日から7月13日まで全40回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全20回でお届けする予定です。