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選手の心を鍛えようと松山千春さんを呼んだが…【石毛宏典連載#16】

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「お前らに負けて野球の夢をあきらめた連中もいるんだぞ!」

 オリックス就任1年目の2002年は50勝87敗3分けの最下位。優勝した西武とは39ゲーム差で5位の日本ハムとも11ゲーム差、勝率3割6分5厘は球団史上最低記録更新と無残な成績に終わった。

 数字以上にチームの内情は深刻だった。それはオフになると形になって表れた。フロントの一人が私にこう言った。「選手から不満が出ている。厳しすぎる、起用法が納得できない…。来年はもう少し選手の気持ちも考えて、うまく使ってやってくれ」。あきれるしかなかった。

 私は、その関係者に「なぜ、その選手に対して“何を言っているんだ。起用法を批判する前に、自分がもっと頑張らなきゃ駄目だろう。成績が悪かった理由を、人の責任にするな”と言ってくれなかったんですか」と詰め寄った。

1年目の石毛監督はチームのレベルアップに頭を悩ませたが…(2002年3月、神戸)

 結果を残せなかった理由を人の責任にして当然のようにフロントに訴える選手。それを聞いた球団側も本来は選手を厳しく指導する立場にもかかわらず彼らを注意することなく、その不満をそのまま監督に伝える。何と甘い組織なのか、と改めて頭を抱えた。

 この1年間、何とかチームのレベルアップを図ろうと汗を流してきた。失敗した選手が悔しさを表に出さない。技術的に未熟で「もっとうまくなりたい」と思えば、自ら行動を起こすものだが、そうではなかった。私はナイター後にも観客が帰った後の球場で居残り練習をさせるなど、選手の尻を叩いた。

 個々が力をつけて成績が上がれば年俸もアップする。そして、チームも強くなり、最終的には優勝という最高の目標にたどり着くことができる。野球選手としてこれがどれだけ幸せなことか。幸運にも私は西武でそういう経験をたくさんさせてもらった。オリックスの選手にもそういう喜びを味わってもらいたかった。しかし、そういう私の思いを選手に伝えることができなかった。

 私は2年目に向けて選手の“心”も鍛える必要があると考え、キャンプ中のミーティングでは各界で一流と呼ばれる人々に講演してもらうことにした。その講師の一人がシンガー・ソングライターの松山千春さんだった。

松山千春は石毛オリックスの春季キャンプで講師を務め、熱い言葉を残した

 03年の春季キャンプを視察し、夜はミーティングで話をしてくれた。「お前たちは小さいころから野球で競争して勝ったからここにいるんだろう。もっと自信を持てよ。お前らに負けて野球の夢をあきらめた連中もいるんだぞ。そういうことを考えたら、全力を出さないと! 100の力を100出しなさい。出し惜しみしてどうすんだ。ここで出さないでいつ出すんだ!」。

 約1時間、選手に熱い口調で語りかけた後、最後にこう言った。「偉そうなことを言っても俺はただの歌手だ。お前たちのためにできるのは歌うことだけだ。最後に1曲、聴いてくれ」。アカペラでヒット曲「大空と大地の中で」を熱唱してくれた。

 ♪果てしない大空と、広い大地のその中で~――。沖縄・宮古島のミーティングルームに力強い歌声が響き渡った。

解任のきっかけはオーティズの二軍降格

 チームの状態が落ち込むとともに私と一部のフロント首脳との関係も悪化していった。

 就任1年目の2002年は開幕から6連敗。4月下旬に一度は勝率5割に戻したものの、5月からは借金が膨らむ一方だった。そんな時、ある球団首脳は私にこう言い放った。「野球の勝ち負けなんてバクチだよ。そんなに深く考えなくてもいいんだよ」。1勝のためにどれだけ首脳陣、選手、スタッフが粉骨砕身しているか。心の底から怒りが込み上げてくるのを感じた。「私は野球を仕事にしてきた。野球は賭け事、バクチじゃない。そんな安易な気持ちで采配は振れないし、若者の指導もできない」と席を立った。

 8月になると10連敗を喫し、借金も20を超えた。このころになるとフロントに対する批判が噴出する。十分な戦力を整えていないのではないか。球団首脳に責任追及の矛先が向けられるようになった。すると、彼らの態度が一変した。選手起用や采配などにも口を出すようになったのだ。何度も堪忍袋の緒が切れかかったが、選手経験があり、現場のことを理解してくれていた球団幹部に「喧嘩はするな」となだめられて、言葉をのみ込んだ。こんな具合にフロント首脳と口論する回数も増えていった。

ベンチで険しい表情の石毛監督。黒星が先行し、苦悩の日々だった

 1年目の低迷を受けて球団は03年シーズンに向けて補強をした。ルーズベルト・ブラウン、ホセ・オーティズというメジャー経験のある若い野手と契約。さらに、メジャーでプレーしていた吉井理人、マック鈴木、中日から山崎武司を獲得した。しかし、開幕から4連敗を喫するなど序盤から黒星が先行する苦しい戦いとなった。

 4月中旬のコーチ会議で私はオーティズの二軍降格を決めた。後にロッテやソフトバンクで活躍したように身体能力は抜群だったものの、日本の野球への対応に四苦八苦していた。打てば三振か併殺打で守ってもエラーを連発する。プレー中に困惑した表情を見せることも多くなり、二軍で日本の野球に慣れることが先決と判断した。戸惑いを解消できれば十分に戦力になると考えていた。

オリックス時代のオーティズ(2003年7月、西武ドーム)

 ところが、この会議の内容を伝え聞いた球団首脳は私が早々とオーティズを見切ったと考えたようだ。この直後の4月20日夜、千葉でのロッテ戦を終えて札幌市内のホテルに移動した夜に解任を通告された。戦力を整えたフロントの意に反した選手起用をしようとしたということなのだろう。

 日本ハム3連戦の勝ち越しを決めた4月23日、私は札幌ドームで会見を行い、ユニホームを脱いだ。こういう結果になってしまった以上、いろいろと思うところはある。就任要請をもらった時にもっとオーナーとお互いの野球観や価値観を話し合うべきだった。これは私に限ったことではなく、しっかりしたチームづくりを行うため、こうした解任劇を避けるためには必要なことだと思う。

 私は監督就任前から温めていた計画を実現させるために新たな道を走り始めることになる。

解任会見で頭を下げる石毛監督(手前)と岡添裕球団社長(2003年4月、札幌ドーム)

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いしげ・ひろみち 1956年9月22日、千葉県旭市生まれ。市立銚子から駒大、プリンスホテルを経て81年に西武ライオンズにドラフト1位で入団。8回の日本一、11回のリーグ優勝に貢献。新人王(81年)、シーズンMVP(86年)、日本シリーズMVP(88年)、ベストナイン8回、ゴールデングラブ10回、14年連続球宴出場と輝かしい成績を残す。94年オフ、ダイエー(現ソフトバンク)にFA移籍。96年に引退。ダイエー二軍監督、オリックス監督を歴任。その後、四国アイランドリーグを創設するなど各地の独立リーグ設立に尽力。現在は野球教室「石毛野球塾」の塾長を務める。著書は「石毛宏典の『独立リーグ』奮闘記」(アトラス出版)。

※この連載は2012年5月8日から7月13日まで全40回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全20回でお届けする予定です。

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