見出し画像

デビュー戦4分48秒を経験したからこそ、後に30分60分戦えた【小橋建太連載#3】

前の話へ / 連載TOPへ / 次の話へ

京セラに就職…でもタイソンを見て決めた

 高橋先生の薦めもあって、京セラに就職が決まった。俺の就職と同時に京都市内に引っ越したおふくろも喜んでくれた。勤務先は滋賀・八日市。滋賀県には縁がある。俺がデビューした場所であり、嫁(真由子夫人)が生まれ育った場所だ。駅でいうと近鉄の近江八幡なんだけど、今になって「当時すれ違っていたかも」なんて話している。

 第1希望は総務部だった。プロレスラーになる夢をいったん置くからには、サラリーマンに打ち込みたかった。デスクワークがしたかったし、コツコツ働く部署が一番かと思った。でも配置されたのは、一番つらくて誰もが嫌がる部署。コピー機を製造する際に出てくる粉じんを処理する仕事だ。最初は文句を言っていたが、それはみっともないじゃないか。俺は握りこぶしを作りながら、黙って仕事に打ち込むことにした。

WBC世界ヘビー級王座に挑戦する前日、プロレス修行中の輪島から激励を受けるマイク・タイソン(86年10月、ネバダ州ラスベガス)

 寮は4人部屋。食事以外、楽しみはほとんどない。ラグビー部に誘われてロックで数試合に出場したりした。車を買い免許を取って約100万の借金ができた。でも、何だか、こう、満たされない日々が続いた。そんな時期、寮の居間にあったスポーツ新聞でマイク・タイソンの記事を読んだ。俺と同級生に当たる年齢だ。孤児院育ちだが、史上最年少で世界ヘビー級チャンピオンになろうとしているという。衝撃を受けた。「ああ、それに比べて俺は何やってんだろう」。率直にそう思った。この時、理由は分からないけど「よし、俺はプロレスラーになるんだ」と再び決めたんだよね。

 2年目に入るころ、約半年の鹿児島転勤もあったが、俺は残業に次ぐ残業をこなして何とか借金を返済し終えた。もう東京に行ってプロレスラーになるしか道はない。俺は会社に辞表を出した。もちろん慰留されて、おふくろにも「せっかくいい会社に入ったのに…」と泣かれたけど、もう後戻りはできない。京セラを退社した俺はおふくろの家に居候しながら、全日本プロレスに履歴書を送った。1987年2月のことだった。

会社の寮でファイティングポーズ。19の夏だった

 書類選考で一度は落ちたが、当時通っていたジムの会長のおかげで、5月の大津大会で面接を受けることになった。当然テストがあると思っていた俺は、緊張して会場に行った。初めて会う馬場さんはやはりとても大きい方だった。ガチガチに緊張してる俺を見て馬場さんは「分かった」とだけ言う。それから「みんなにあいさつしてこい」と。「俺、受かったのか?」。何だか拍子抜けした。

 初めて入るプロレスの控室。訳も分からないまま、あいさつしまくった。「フン」と鼻であしらう人、無視する人…応じてくれたのはたった2人だけ。鶴田さんと三沢さんだ。今でも忘れない。

 鶴田さんは「はいはい、頑張ってね」。三沢さんは当時タイガーマスクだったから、マスク越しにニコッと笑ってくれた。分かる人は分かるだろう。眉毛を動かすあの独特の笑顔だ。最後に馬場さんは「事務所から電話が行くから待ってろ」と言ってくれた。何だかよく分からないが、とにかくプロレスラーになれたらしい。2週間の自宅待機の後、87年6月、俺はカバンひとつで東京駅に降り立った。

デビュー戦後、馬場さんに初めてホメられた

 カバンひとつに頭は丸坊主。ブカブカのジーパンをはいた俺は、誰がどこからどう見ても、おのぼりさんだった。地下鉄の乗り方も六本木の方角も分からない。東京駅から全日本プロレス事務所に行くため、東京の大学に通っていた福知山高校柔道部の後輩を呼び出し、何とか六本木にたどり着いた。

 もう有名な話になっちゃったけど、全日本の事務所に到着すると、マスコミの人に「服を脱いでファイティングポーズを」と言われ、写真をバシャバシャ撮られた。大相撲の元十両・玉麒麟こと田上明と間違えられたんだ。思えばAT(田上)とはこの時から縁があったのか…。

 事務所で世田谷・砧の道場兼合宿所の地図をもらい、とりあえず西の方向に向かった。「ふとんは送らなくていい」と言われていた。入門してもすぐ辞める人間が多くて、送り返すのが面倒だからだ。俺もそういううちの一人と思われていたわけだ。

 当時の合宿所には小川(良成)さん、菊地(毅)さん、高木(功)さんが住んでいた。部屋には「好きに使っていいよ」と言われた破れたクッションのみ。天井にはネズミが走っている。正直言って汚くて仕方ない。でも俺は興奮していた。すごいぞ、すごいぞ、すごいぞ。俺はプロレスの道場に入ったんだ。プロレスラーになれるんだ――それがようやくスタートラインに立った俺の素直な気持ちだった。

 練習が始まった。想像以上にキツかった。簡単な基礎運動でもついていくのが精一杯だった。やっぱりプロのレベルは違う。105キロあった体重は90キロまで落ちた。合同練習が終わっても、先輩たちの食事の世話、電話番と気を抜く間もなかった。でも俺は希望にあふれていた。辞めるという選択肢など俺の中には存在しなかった。

 給料は月5万円。ちょっと変わっていて奇数月は5万円、偶数月は10万円というシステムだった。でも使う暇がない。一日中合宿所から出られないからだ。練習漬けの日々から巡業へ。バトルロイヤルでのプレデビュー戦を経て、1988年2月26日、滋賀・栗東町民体育館。俺は大熊元司さんとのデビュー戦を迎える。

デビュー戦で大熊元司にパンチを見舞う小橋(88年2月、滋賀・栗東町)

 記録を見ると「4分48秒」。実際は永遠にも思えるほど長い長い時間だった。開始から攻めて攻めて、ペース配分も何もない。1日に何千回もスクワットしたはずなのに心臓が張り裂けそうになった。ボディースラムやドロップキックは出せたけど、大熊さんの手のひらで遊ばれていたようなものだ。何も思い出せないが、最後はヘッドバットか何かで敗れたんじゃないかな。

 でもあの4分48秒を経験したからこそ、後に30分60分戦える下地ができた。「デビューしました。ありがとうございました」。馬場さんにそう報告すると「ホテルの上で待ってるからな」。試合後、宿舎の最上階にあるレストランに来いという意味だ。馬場さんの付け人を務めていたが、食事に呼ばれたことなど一度もなかった。

 その席で「よう頑張ったな」と初めてホメられたんだ。涙が出そうになった。俺はようやくプロレスラーになったぞ。すごいぞ。やったぞ。そう叫びたい心を抑えながら、俺はテーブルの下で握りこぶしを作って、ひたすらメシを食い続けていた。

デビュー直後の初々しい姿。馬場さんに初めて褒められたのは何よりの勲章だった

前の話へ / 連載TOPへ / 次の話へ

こばし・けんた 1967年3月27日、京都府福知山市生まれ。本名・小橋健太。87年に全日本プロレスに入団し、翌年2月デビュー。四天王の一人として3冠ヘビー級、世界タッグ王座に君臨。2000年のノア旗揚げ後はGHCヘビー級王者として13度の防衛に成功し、鉄人王者と呼ばれる。06年に腎臓がんを患うも翌年奇跡の復活。その後は度重なるケガに悩まされ、13年5月11日に引退試合を行った。Fortune KK所属。

※この連載は2013年6月から7月まで全20回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全11回でお届けする予定です。また、最終回には追加取材を行った最新書きおろし記事を公開する予定ですので、どうぞお楽しみに!


カッパと記念写真を撮りませんか?1面風フォトフレームもあるよ