ジャイアント馬場が死んだ日「空白の27時間」
この記事は2021年1月26~31日に東スポWebで全6回で連載されたものを1本にまとめ直したものです。新たに編集後記も加筆され、総文字数はなんと9000字超!関連写真も大幅に増やしてnoteで一挙公開。東スポが誇るプロレス記者の本気をお楽しみください。
はじめに
〝世界の16文〟〝東洋の巨人〟として一時代を築いた故ジャイアント馬場さん(本名・馬場正平=享年61)が1999年1月31日、肝不全のため亡くなってから22年がたつ。2月4日には東京・後楽園ホールで「23回忌追善興行」(東京スポーツ新聞社後援)が行われた。亡くなった当時は「巨星堕ちる」の報道に日本中が悲しみに包まれたが、22年が経過した今、改めて馬場さんが亡くなった長い1日と「空白の27時間」を再検証する。(運動二部・平塚雅人)
菊地毅にパイルドライバーを狙うG馬場さん。この6人タッグマッチが生涯最後の試合となった(1998年12月5日、東京・日本武道館)
「京平、今日は無理だ」大会直前に起きた〝最初の異変〟
1999年1月31日午後4時4分。馬場さんは東京・新宿区の東京医科大病院で亡くなった。前年12月末から体調の不良を訴えて入院。1月8日には腸閉塞の手術を受けたものの、退院の日は訪れず肉声は聞かれないままで、容体が気遣われていた。
病室に入れたのは夫人の元子さん(享年78)、和田京平レフェリー(66)、仲田龍リングアナ(享年51)、馬場さんの姉と姪、元子さんの姪の「馬場ファミリー」のみだった。明確なかん口令が敷かれていたわけではない。だが「余計なことは一切口にしない」という、馬場さんの近くにいた人間なら誰もが心に刻んでいた暗黙のルールを皆が守り続けた。当時、和田氏は何度も病院のロビーで待ち続けていた記者に「大丈夫、大丈夫。元気にしてるよ」と言い続けた。
ここで容体が悪くなるまでの経過を振り返る。98年11月30日仙台大会終了後に風邪の症状を訴え、12月2日松本大会で異変が起きた。和田氏が運転するバスが会場に到着すると、馬場さんは「京平、俺は今日は無理だ。試合には出れない」と車から降りることを拒否した。
松本市総合体育館に馬場さん欠場の張り紙が張り出された
元子さんが「馬場さん、そんなこと言わないで、さあ行きましょう」と言っても「無理だと言ったら無理だ!」とガンとして聞かなかったという。その瞬間、和田氏は「どんな時でも休まなかった馬場さんが出ないという。これはただごとではないと感じた」と察知した。
結局、元子さんと仲田氏が付き添う形で開場前の体育館を後にして、松本発新宿行きの特急電車で帰京。そのまま東京医科大附属病院へ直行した。
「その夜に『京平さん、大変だったよ。横から支えたけど馬場さんが歩けなくて…』と龍から連絡が入った。でもまだその時はハッキリした病名は俺たちには分からなかったんだよね」(和田氏)
自宅で休養後に同3日静岡大会を欠場するも、シリーズ最終戦となった同5日の日本武道館大会には出場。結果的にはこれが馬場さんの最後の雄姿となった。この時点でまだ元子さん以外の人間は、馬場さんの異変に気づいてはいない。翌6日から恒例のハワイ旅行へ出発する予定はそのままだったからだ。
馬場さんとゆかりの深い東京体育館(写真は1986年)
そして出発当日、事態は急変する。元子さんがハワイ旅行をキャンセルする意向を和田氏に連絡してきた。一転して旅行は中止。馬場さんはそのまま緊急入院することになる。
「なあ、京平。俺は何の病気なんだ」緊急入院から約1か月…事態が急変
和田氏がハワイ旅行の準備を整え、馬場さんの自宅へ迎えに行こうとした矢先だった。元子さんから「京平、馬場さんは少し熱があるから先に行っててちょうだい」との連絡があった。「もうこれは普通の状況ではないと判断した。すぐ中止にして駆けつけました」と和田氏は明かす。
ハワイを愛していた馬場さん(1985年12月=右は元子夫人)
ハワイ行きが中止になると聞くと、馬場さんは「なにっ」と驚いたという。自身も病状を知らされていないまま、東京医科大病院に緊急入院した。入院後もことあるごとに馬場さんは和田氏に「なあ、京平。俺は何の病気なんだ。どこが悪いんだ」と問いかけてきた。半月後に判明することになるが、この時点で馬場さんは腸閉塞を患っていた。今思えば医師から病名を告げられた元子さんは、最後まで周囲に事実を伏せていたのだ。
病状は特に悪化せず安定したまま年末年始を迎え、99年の1月2日には新春シリーズが後楽園ホールで開幕する。入り口には「ジャイアント馬場欠場のお知らせ」という告知が貼られていた。
団体はそのまま地方巡業に入るが、同8日に馬場さんは腸閉塞の手術を受ける。手術は成功したとされたが、実はこの時点で上行結腸がんは進行していた。しかし、側近にもその事実は知らされないままだった。
シリーズ中に一度帰京した和田氏は途中経過の報告のため、病室を訪れる。その際「ああ、社長は手術したんだなと横たわっている雰囲気で分かった。でも、その時はまだ話せたんですよ。だから俺もそのままシリーズに戻った」という。
そして最終戦の1月22日大阪大会を終えて帰京。シリーズの報告をするため、和田氏は23日、再度病室を訪れる。同大会では三沢光晴と川田利明の3冠ヘビー級王座戦が行われ、川田が新王者となるも試合中に右腕尺骨骨折のため、後日王座を返上する。
三沢VS川田の三冠戦をさばく和田京平レフェリー
23日に和田氏から「社長、無事にシリーズは終わりました。でも、川田が骨折しちゃって」との報告を受けた馬場さんは、ベッドの上で「バカだなあ。何をやっているんだ」と苦笑いで静かに応じたという。そしてこれが馬場さんと和田氏の最後の会話となった。
翌24日から事態が急変したからだ。
1999年1月31日 ジャイアント馬場力尽く…「持ってあと数時間」から半日以上戦っていた
和田氏が最後に言葉を交わした翌日(1999年1月24日)から、馬場さんの容体は急変する。意識はだんだん遠のいていき、口からは言葉も出なくなった。集中治療室と病室を行き来する日が続いた。この時点でも本当の病名を知っているのは元子さんだけだった。そして、運命の日が訪れる。
馬場さんと元子さんのベストショット(1983年テキサス州ダラス)
1月31日朝。担当の医師から「持ってあと数時間です」との言葉があった。しかし馬場さんは人並み外れて心臓が強かったため、そこから半日以上も持ちこたえた。そして夕方。病室のベッド横で馬場さんへ必死に声をかけ続けていた6人に、再び医師から通達があった。
薬で延命はできます。ただし呼吸をしているだけの植物的な状態になります。どうしますか――そんな趣旨の言葉だった。その瞬間の模様を和田氏はこう振り返る。
「俺と龍は元子さんの意思が一番という考えだった。元子さんは『馬場さん、頑張ったよね。かわいそうだから、もうゆっくりさせてあげましょう』って。ところが馬場さんの姪2人が『私たちは血がつながっているんです。馬場さんは死にません!』って泣き始めちゃったんだよね。いつもは静かな人たちだったのに。それを聞いた元子さんは『私の旦那さんです!』って言い返した。その時だけは病室に緊張感が走った」
結局、同日午後4時4分、馬場さんは天に召された。だがその直後、病室に泣き声はなかった。医師からの「しばらくは温かいから触ってください」との言葉を受けると、6人が腕、顔、足などをさすり「馬場さんお疲れさまでした…」と声をかけ続けた。元子さんはイスの上に立ち、高い位置から「馬場さん、馬場さん。ほら、馬場さんがこっち見てるよ」と手を振っていた。和田氏は腕を握り「ありがとうございました。お疲れさまでした…」とお別れを告げた。
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