高校合格発表の日が人生最初の〝青春の握りこぶし〟【小橋建太連載#2】
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毎朝のプロレス特訓で柔道も県大会3位に
プロレスラーに憧れ始めると、俺と兄貴は毎朝5時に起床。家の近くの三段池公園を走って、腕立て伏せやスクワットのトレーニングを始めるようになった。雪が降っても雨が降っても雨ガッパを着て毎朝続けた。さすがに兄貴は高校に進むとやめたけど、俺は中学卒業まで、このトレーニングを5年以上、続けることになる。
中学入学と同時に両親が正式に離婚した。それまでは公務員住宅に住んでいたのだけど、古い長屋のような2階建てに引っ越すことになった。そこがもうボロボロの古い家でね。歩くと階段が抜けたこともある。シロアリに食われていたんだね。1階の床もシロアリに食われボコンとへこんでいたんだけど、おふくろはその上に布団を敷いて寝ていた。そういう姿を見ていたから「いつか大きい家を建てておふくろを住ませてあげたい」という気持ちが強くなった。そのためにもプロレスラーになるしかない――俺は自然とそう思うようになっていた。
中学(福知山市立桃映中)に入るともうプロレスのことしか頭になくなる。ジャンボ鶴田さんがバスケットボール出身と聞いて、身長を伸ばすためバスケかバレーボールをやろうと思った。でも入学して隣に座った少年柔道出身の子に「柔道部を見学しに行きたいから一緒に行ってくれない?」と頼まれたんだ。
将来のために格闘技をやるのもいい――そう考えた俺は柔道部に入ることを決めた。でも当時の柔道部の上級生は悪くてね。柔道場の部室はたばこを吸ったりする不良のたまり場になっていたんだ。まあ、柔道の練習はマジメにやったうえでの不良だったから、誰も文句言えなかったのかな(笑い)。俺は構わず練習を続けた。だから俺が3年になる時には、もう不良連中は消えていたね。
しかも毎朝のプロレス特訓で足腰が丈夫になっていた。投げられなくなって粘り腰になる。そうすると柔道が面白くなるんだ。中3の時には京都北部大会で3位にまでなった。白帯のままだったけど、いくつか柔道強豪校から勧誘も来た。この時はもう180センチ、75キロ。本当は中学を卒業したらすぐプロレスへ行きたかったけど、今プロに行ってもダメだろうし、せめて高校ぐらいはという考えで進学することにした。
でも私立の特待生も授業料全額免除というわけにはいかない。全額でも公立の福知山高校が一番安かったんだ。でも福知山高校普通科は有数の進学校で、当時の模擬試験で800人中100番台の人しか入れなかった。俺は600番台。でも柔道部の練習が終わった後、夜中まで猛勉強を続けた。家には机がなかったから、コタツで勉強したり、布団で腹這いになって勉強したり…。少しずつ成績は上がり、大逆転で福知山高校に合格した。そして合格発表の日、掲示板の前で俺は運命の出会いを果たすことになる。
合格発表の日、恩師・高橋先生と出会う
福知山高校の合格発表の日だ。掲示板に自分の番号を見つけた時、俺は「よし、やったー!」と握りこぶしを作って絶叫した。思えばあれが人生最初の「青春の握りこぶし」だったのか…。
その瞬間だ。肩をポンと叩かれ、振り向くとゴツいおじさんが立っている。いきなり「いやあ、お前が合格するとは思わんかったわ」と言われたから、内心「誰や、このオッサン?」と思ったよ。柔道部の高橋征夫(ゆくお)先生だった。先生は国士舘大学柔道部出身。バリバリの体育会系で体も顔もゴツい。言っちゃなんだが、教育者には見えなかった。でも先生は中学生の大会で俺のことを見ていて「来ないかな」ぐらいの気持ちでいてくれたらしい。
当然柔道部に誘われた。でも俺はプロレスラーになるため、背を伸ばそうとバスケットかバレーボールをやろうと決めていた。「嫌です」と即答すると先生は「そうか」とアッサリ引き下がった。でもそれが先生のうまいところなんだ。決して無理強いせず、巧みに生徒のヤル気を引き出す。結果的に先生は、俺にとって人生の最初の「恩師」になる。
そのうち「小橋、練習試合で人が足らんから出てくれないか?」と頼まれる。まだどの部にも入っていないから、了解した。でも白帯の俺は練習試合で強豪高校の連中に簡単に投げられてしまう。「チクショー、悔しいな」と唇をかんでいると、先生は絶妙のタイミングでまた声をかけてくるんだ。「小橋、練習試合出てくれないか?」。気が付けばいつの間にか道場で練習して柔道部員になっていた。だから俺は結局、入部届は出していない…。
練習するうち強豪校との練習試合でも勝ったり引き分けたりするようになった。こうなると面白くてたまらない。朝学校へ行くと、授業の前には、机をノコギリで切って自分で作った台の上でベンチプレス。放課後に練習を終えると、陸上部から借りたウエート器具合計50キロを背負って土手を走った。さすがにこれは背中の皮がむけて痛くて仕方ないし、スポ根みたいなので数回でやめた(注=それでなくても十分スポ根だが…)。1年で初段を取ると、柔道が面白くてたまらなくなっていた。
3年時には主将になって二段を取り、京都北部19歳以下の大会で優勝した。インターハイの県予選は3位に終わった。壁に当たって悩むことは何度もあった。でも高橋先生は明快な答えはくれない。技のかけ方でもヒントしかくれないんだ。当時は「もう、教えてくれよ!」とじれったかったけど、今ではよく分かる。「自分で苦しんで考えて、答えを出せ」と。その教えはプロレスラーになっても生きた。結局先生には、プロ入り直後の厳しい時に電話で相談したり、逆に酔っ払った先生から電話がかかってきたりと、付き合いは今でも続いている。本当の恩師だよね。
そして高校卒業の時期が迫ってきた。進学という選択肢はなかった。柔道では、全国大会優勝のレベルの高校生がどれだけすごいかという事実も痛感していたからだ。「今のままじゃプロで通用しない」。俺はプロレスラーになる夢をいったん置いて、地元企業に就職する道を選ぶ。
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※この連載は2013年6月から7月まで全20回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全11回でお届けする予定です。また、最終回には追加取材を行った最新書きおろし記事を公開する予定ですので、どうぞお楽しみに!