フリスク50粒を一気に口に放り込んだら気持ち悪くなっちゃって…【下柳剛連載#16】
二日酔いで臨んだ新天地での記者会見
日本ハムのオレと中村豊、阪神の山田勝彦と伊達昌司の2対2の交換トレードが両球団から発表されたのは、2002年11月22日のことだった。当日は金曜日だったこともあって、正式な入団会見は週明けの月曜日。ささっと身支度を整えたオレは、会見前日の24日の夜に「PRIDE23」で引退試合を終えたばかりの高田延彦さんたちと、朝まで浴びるように酒を飲んだ。
目を覚ましたのは、マンションの玄関付近から「シモさ~ん」という声が、かすかに聞こえたからだった。「いったい誰や?」。二日酔いでボーッとしたまま玄関に近づくと、そこにはなぜか代理人の上杉昌隆弁護士が立っていた。「今日は大阪で阪神の入団発表ですよ。電話をかけてもつながらないし、理由を話してマンションの管理人さんに鍵を開けてもらったんですよ」。珍しくかけていたドアチェーンを外しながら、オレは真っ青になっていた。
上杉さんのファインプレーで何とか会見には間に合うことにはなったけど、頭はガンガンするし息もめっちゃ酒臭い。さすがにこれではまずいと思って、JR甲子園口駅の売店で大スポとともにペパーミント味のフリスクを買って、50粒すべてを口の中に放り込んだ。
でも、ものには限度ってもんがあるんだね。口の中がスッキリするどころか、今度は気持ち悪くなっちゃって…。球団事務所に到着したオレが、最初に発した言葉は「トイレどこですか?」。契約書にサインをするときも涙目で、記者会見でまともにしゃべれる自信もなかったから、一緒にひな壇に上がる豊に「必要なことはすべてオマエがしゃべってくれ!」ってお願いした。もちろん涙目で。
当時の記事を改めて読んでみると「セ・リーグでどれぐらい通用するか、一生懸命やって頑張りたい」ってコメントしていたようだ。ただ、正直言うと、新天地で再びチャンスをもらえる喜び以上に、極度の二日酔いのまま臨んだ記者会見を粗相なく無事に乗り切れた安堵感の方が大きかった。
ちなみに02年オフの阪神は、18年ぶりのV奪回に向けて本気で動いていた。のちに藤川球児、久保田智之とともに「JFK」と呼ばれたことでも知られるドジャースのジェフ・ウィリアムス、「アニキ」の愛称で親しまれることになる広島からFA移籍の金本知憲、日米で実績十分のレンジャーズ・伊良部秀輝と、いわゆる「大物」を次から次へと獲得していった。
ただ、02年シーズンは17試合で51回2/3しか投げられず、2勝7敗という不本意な成績だったこともあって、オレの目標はあくまで「開幕一軍」。新天地では謙虚にスタートを切った。
KOされた試合でボロカスに言われた
新天地の阪神では驚きの連続だった。まずビックリしたのが報道陣の多さ。日本ハム時代にも大勢の記者に囲まれた経験はあるけど、イチローの連続打席無三振記録を止めたときや、球界初の代理人交渉をしたときなど数える程度。それが阪神では、入団会見の直後から「○○スポーツの××です」って何十人もの記者からあいさつされて、束になった名刺を見ると同じ会社の人が普通に5人も6人もいた。
正直怖いと思った。事前に「阪神では、ちょっと話したことが大げさに扱われるから」とレクチャーも受けていたし。ただ、阪神時代に記者を相手にほとんどまともに話をしなかったのは、それだけが理由じゃない。移籍直後だったかな。ある記者に「持っている球種は何ですか?」って聞かれてね。新人ならともかく、オレはその時点で12年もプロでメシ食ってんだよ。なんかバカらしくなって、そのころから口数も少なくなったんだ。
ファンの多さも日本ハムとは比べものにならなかった。シーズンに入るまでもなく、キャンプから注目度が違う。オレが移籍した2003年から阪神がキャンプを行っている沖縄の宜野座と日本ハムのキャンプ地の名護とは20キロも離れていないのに、その数は雲泥の差。練習の合間でも選手の動線にはサインを求めるファンの行列ができていて、メーン球場から陸上競技場へと移動するのも大変なほどだった。
数だけじゃなくて、熱さもすごいのが阪神ファンだ。特に甲子園で抑えたときなんかは、他の球場では味わえないような大声援と賛辞を送ってくれる。移籍後初勝利を挙げた4月20日の横浜(現DeNA)戦でもそうだった。だけど、負けるとそれが一転する。記念すべき白星から中6日で先発した広島戦で2回6失点でKOされると、予想だにしなかった事態が待っていたんだ。
不慣れな土地で、まだ抜け道なんかも知らなかったオレは、甲子園球場を出てすぐの信号につかまって車を止めた。そうしたらファンに「あっ、下柳だ!」ってバレちゃってね。「はよ、信号が青にならんかな」って思いながら前だけを見ていたら、あれよあれよという間に100人近いファンに囲まれちゃってさ。「しっかり投げろや!」だの「日本ハムに帰れ」だのボロカス言われた上に、メガホンで車をボカスカ叩かれて…。信号が青になっても動くに動けないし、ひたすら車の中で耐えるしかなかった。
もう一つ驚いたといえば星野仙一監督かな。毎日のように顔を合わすようになったのはキャンプインしてからだけど、それまで抱いていたイメージと実際の星野さんには大きな違いがあった。
※この連載は2014年4月1日から7月4日まで全53回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全26回でお届けする予定です。