幻に消えた宮沢りえ監督【田中幸雄連載#11】
右肩痛で戦線離脱し土橋監督とは接点がないまま…
ようやく波に乗り始めてきた矢先の出来事だった。プロ7年目となる1992年、沖縄・名護春季キャンプ。前年は4年連続となる全試合フルイニング出場を果たし、3度目のゴールデン・グラブ賞も受賞したことで、自分なりに手応えをつかんでいた。だからこそ前年以上の飛躍を誓い、名護で汗まみれになって体をいじめ抜いていた。
ところが、そのキャンプ中のある日、右肩付近に違和感を覚えた。スローイングをしていると右肩の後ろ側が痛みだし、だんだんとうずく。少し休むと痛みは引くが「大丈夫だな」と思って投げ始めると、また痛む。その繰り返しだった。
ちょうど、この年から日本ハムは新しい指揮官を迎えていた。前任の近藤貞雄さんは3年連続Bクラスで退任。そしてバトンを継いだのが土橋正幸さんだった。新体制のもと、きっと自分も前年までのような活躍を期待されていたと思うが、結果として右肩の故障で1年を棒に振ることになってしまう。
いずれ快方に向かうであろうと思われていた右肩の痛みはなかなか軽減しなかった。オープン戦終盤に強行出場したものの、本調子には明らかに程遠い。そして迎えた開幕戦。敵地・西武球場で行われた西武との一戦は右肩が万全でないことからスタメンを外れ、試合途中に代走で出場した。ここまで続いていた連続試合出場の記録が継続していたこともあり、土橋監督が配慮してくれた格好だった。ところが代走のみの出場は連続試合出場記録にカウントされなかった。終わってみれば試合も1―4で完敗。重苦しいムードがチーム全体に漂った。
公認野球規則には「連続記録の規定」に関する記述がある。「プレーヤーが連続試合出場を記録するためには、少なくとも自チームのあるイニングの守備(回の初めから終わりまで)に出場するか、あるいは塁に出るかアウトになって打撃を完了しなければならない。代走として試合に出ただけでは、連続試合出場を記録したことにはならない」。この規定に気付いたのは試合後のことだった。
連続試合出場記録が途切れた私は開幕戦終了直後に一軍登録を外れ、早々に戦線離脱。右肩の内視鏡手術を受け、長いリハビリ生活を送ることになった。当時を知る多くの人たちが明かしているように、土橋監督は起用法や練習方法など様々な面において選手たちから反発を買い、チームも5位と低迷。その責任を問われる形で1年間の契約を残して、わずか1シーズン限りで退任へと追い込まれてしまった。
私は右肩痛でリタイアしたこともあり、ほとんど土橋監督とは接点がないままだった。そして迎えた92年のオフ、日本ハムにはただならぬムードが漂った。
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1992年は自分にとってもチームにとっても「試練の年」となった。キャンプ中に右肩痛を患い、試合出場も開幕戦での代走のみ。連続試合出場記録は途切れ、がむしゃらに突っ走ってきた気持ちもなえそうになった。
ファームでリハビリを続けたものの、右肩は思うように回復しない。この年から日本のプロ野球でも導入されることになった故障者リストに7月2日付で入ることになった。その後、右肩の内視鏡手術を受け、翌年の復帰を目指すことになったが、さすがにへこんだ。
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