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本拠地最終戦…大沢監督の土下座は驚きと申し訳なさでいっぱいだった【田中幸雄連載#12】

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失策の〝悪癖〟克服できず遊撃から左翼へコンバート

 1993年から日本ハムの指揮を執ったのは、元監督で球団常務を務めていた大沢啓二さんだった。右肩痛で前年のシーズンを棒に振った私も新体制の下、開幕戦から定位置の遊撃でスタメン復帰。チームもスタートダッシュに成功して快調に白星を重ね、4月終了時点で首位に立っていた。

 ところが5月に入るなり3連敗を喫し、西武に首位の座を明け渡してからは勝ったり負けたりの繰り返し。2位には踏みとどまっていたが、この流れに危機感を覚えた大沢監督は5月の大型連休が明けると、大きな決断を下した。私の左翼手への転向だ。私に代わって遊撃のポジションには広瀬哲朗さんが入った。

田中の左翼転向に踏み切った大沢監督

 コンバートのきっかけとなったシーンはよく覚えている。グリーンスタジアム神戸での5月3日のオリックス戦。二ゴロ併殺となる場面で、二塁ベースを踏んでから一塁へ送球する際に一塁走者の頭にぶつけてしまったのである。痛恨の失策。ベンチで大沢監督がわなわなしていたのは容易に想像がついた。その4日後から2試合連続でDH起用となり、正遊撃手の座を外された。

 要所で敗戦につながる失策を犯してしまうことも少なからずあり、このシーズンも復帰早々から“悪癖”が顔をのぞかせていて克服できていなかった。だから大沢監督の決断は至極当然で十分納得できた。それまで広瀬さんは代打や守備固めで途中出場するケースが大半だったが、守備力は私よりも上だった。

 大沢監督もそんな広瀬さんの能力を買い、32歳の年に正遊撃手のポジションを任せたのだろう。何よりも広瀬さんは常に闘志をむき出しにするタイプの人で、そういうプレースタイルを大沢監督は好んでいた。ガッツの塊のような広瀬さんのプレーを目に焼き付けさせることで、私のさらなる開眼を期待していたのだろう。実際に大沢監督には「広瀬の守備を見て勉強しろ」とも言われた。

広瀬哲朗(右)の華麗な守備(94年2月、沖縄)

 ただ、この話にはオチもある。左翼手として初出場した5月11日のダイエー戦(北九州)。左中間へ飛んできた痛烈な打球は明らかに抜けていく当たりだった。普通なら回り込んでフェンスに当たってからのクッションボールを処理しなければならないのに、直線的に飛び込みながら捕りにいってしまった。

 内野の感覚が身についてしまっていたからなのだろう。捕れるはずもない打球は抜けていき、結果は二塁打。無謀なダイビングキャッチを強行しなくても長打にはなっていただろうが、ベンチに戻ると大沢監督から大目玉を食らった。「お前、ああいう打球は飛び込むんじゃなくて、ちゃんと回り込まなきゃダメじゃねえか!」

 不慣れなポジションではあったが、左翼守備も場数を踏むことでだんだんと板についていった。そしてチームも投打の歯車がかみ合い、最後まで好調をキープすることになる。

ファン感謝デーの始球式に登場した大仁田厚(右)と広瀬哲朗(93年11月、東京D)

10年ぶり再開で大沢監督が〝ケジメの土下座〟

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