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最大4人!!ファイターズの田中姓の選手たち【田中幸雄連載#10】

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「オオユキ」さんと「コユキ」

 コアなファンなら覚えているかもしれないが、実は1989年まで日本ハムには私以外にもう一人の「田中幸雄」さんがいた。右投げの長身投手、田中幸雄さん。同姓同名の田中さんは8歳上。社会人の電電関東を経て、私より4年早くドラフト1位で入団した先輩だ。

田中幸雄のピッチング(82年9月)

 86年に私が新人としてファイターズに入るまでは、田中先輩は「幸雄さん」と呼ばれていた。だから私は混同しないよう田村藤夫さんや白井一幸さんら先輩たちから「コユキ」と呼ばれるようになった。田中先輩はスタッフやチームメートから「幸雄」や「幸雄さん」と呼ばれ続けていたが、190センチと長身だったことから、現場以外の人には「オオユキ」と呼ばれることも。一方の私は184センチだから「コユキ」というワケである。

新人入団発表、左から白井一幸、田中学、津野浩ほか、前列左から瀬古球団社長、大社オーナー、植村義信監督(83年12月、球団)

 私のプロ2年目、87年に正遊撃手として一軍定着してから、紛らわしさはさらに増した。一軍には田中姓の投手が「オオユキ」さんと、もう一人いたからだ。7つ年上で法政大から82年のドラフトで1位入団した右腕・田中富生さんだ。そして当時一軍ではなかったが、ファームにも6つ年上で社会人チームの日立造船有明を経て83年にドラフト2位で入団した右腕・田中学さんがいた。

笑顔の田中富生(84年、後楽園球場)

 富生さんが88年から中日でプレーするようになるまで、ファイターズには実に4人もの田中姓の選手が所属していたのである。名字ランキングでベスト5に入るほど多い名前ながら、ここまで揃うのは極めて珍しいのではないだろうか。ちなみに今年の日本ハムは今季限りで引退した田中賢介を筆頭に田中豊樹、田中瑛斗と田中姓は3人だった。

左から田中賢介、田中瑛斗、田中豊樹

 球団フロントの人たちも「田中問題」には、かなり頭を悩ませていたと聞く。近年であれば、田中のうちの誰かが「イチロー」のようなカタカナや「T―岡田」みたいにアルファベットの入った登録名にすることで混乱を回避するのだろうが、当時はそうした前例もなかった。結局、一番ややこしい「オオユキ」さんと「コユキ」の同姓同名2人のスコアボード表記は先輩が従来通りに「田中幸」、後輩の私は「田中雄」と書き分けられることになった。

笑顔のイチロー(96年9月、グリーンS神戸)

 ちなみにオオユキさんは私のことを「幸雄」と呼んでいた。もちろん私も「オオユキさん」ではなく「幸雄さん」。先輩の幸雄さんは周りが面白がって騒いでいたのとは対照的に、困惑することもなく至って普通に接してくれていた。投手と野手だったので、それほど深い接点はなかったが、同姓同名だったこともあって何かと気にかけていただいた。私が一軍に定着した87年、スコアボードに当時9番・遊撃だった私の「田中雄」と先輩の「田中幸」が並んで表示されると、球場全体がドッと沸くシーンは今でも鮮明に記憶している。 

日ハムの田中姓4人が勢揃い。左から投手・冨生、幸雄、学、野手・幸雄

「トレンディーエース」西崎さんの〝類まれな器用さ〟

 1980年代後半の日本ハムには「トレンディーエース」と呼ばれる人気投手がいた。3歳上の右腕・西崎幸広さんだ。私より1年後の86年のドラフト1位で、愛知工業大学から鳴り物入りで日本ハムに入団。ルーキーイヤーから大活躍し、同じ1年目の近鉄・阿波野秀幸さんと新人王を争った。惜しくもタイトルは逃したが、いきなり15勝を挙げて防御率も2点台をマークした実力は誰が見ても称賛に値するレベルだった。

トレンディーエース・西崎は圧倒的人気を誇った

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