私の〝怪獣イビキ〟で古屋英夫さんには迷惑をかけた【田中幸雄連載#9】
酒豪・大島康徳さんとの出会いが飛躍のきっかけに
今回は野球からそれてしまうが、ちょっとお酒の話から。私はまったく飲めないというわけではないが、基本的にお酒が好きではなく、おいしいと思ったことがない。だから今まで酔っぱらった経験もない。
昔から頑張って飲んでもビールならジョッキ一杯程度。焼酎でも超薄めの水割りで9・5対0・5ぐらいにする。両親もほとんど飲まないので、どうやら家系的にお酒が苦手みたいだ。
日本ハムの先輩たちは大半がお酒好きだった。自分が二十歳を超えると酒席に呼ばれることも増えていったが、不思議なぐらいにお酒を勧められなかった。「俺のついだ酒を飲めないのか!」みたいなことも一度としてなかった。愚直な性分であったことも先輩たちは皆が分かっていたので、それが幸いしたのかもしれない。
中日から交換トレードで加入した大島康徳さんも、酒豪と言えるほどたくさん飲む人だった。でもベロベロに酔っぱらうわけではなく、アルコールが入っても見た目はほとんど変わらない。私もよく誘ってもらった。
酒席での大島さんは、野球に対する考え方を熱く語ってくれた。豊富な経験を踏まえた話は興味深いものばかりで、私がシラフであっても退屈することがない。だから大島さんから「おい、今晩行くぞ」と声をかけていただき、ご一緒させてもらうのが何よりも楽しみでうれしかった。
プロ3年目となる1988年シーズンは大島さんとの出会いも大きなプラス材料となり、飛躍の年となった。オールスター戦ではパ・リーグの遊撃手部門でファン投票1位となり、初めて晴れの舞台に立った。当時はシーズン130試合だったが、フル出場したのもこの年が初めて。打撃成績も打率2割7分7厘、57打点、16本塁打とすべての数字が上がった。
苦しんでいた“送球イップス”にも明るい兆しが見えてきた。取り組んできた守備練習の成果に加え、打撃向上による相乗効果も手伝い、最悪の状態からは何とか脱することができた。オフには初のベストナインに選ばれただけでなく、ゴールデン・グラブ賞にも選出された。
これには恵まれた面もあった。88年は17失策しており、胸を張れるような数字ではなかった。ただ、西武の石毛宏典さんが遊撃から三塁に転向するなど、たまたま他球団のレギュラーが固まっていなかったという背景もある。
とはいえ前年に“送球イップス”を患い、壁当てすら満足にできなかったころのことを思えばベストナインとゴールデン・グラブ賞のダブル受賞は夢のようだった。同時に大きな自信にもなった。
89年秋季キャンプで宿舎に設けられたイビキ部屋
特に公表してこなかったが、私は野球以外でもファイターズ史に名を刻んでいる。頭角を現したのはプロ2年目の1987年、沖縄・名護での春季キャンプ中だった。
当時の宿舎は2人部屋で、キャンプ一軍スタートの私は古屋英夫さんと和室で同部屋になった。そしてある日、熟睡していると真夜中に「バッチーン! バッチーン!」とけたたましい音が室内に鳴り響いていることに気づき、目が覚めた。
眠い目をこすりながら「何だろう…」と思い、暗がりの室内を見ると真横で布団に入っていた古屋さんが手で畳を何度も叩いていた。原因は私のイビキ。自分では気づきにくいものだが、相当うるさかったようで、寝つけない古屋さんは何とか私のイビキを鳴りやませようとしていたのだ。
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