観戦に来た家族の前で起きた〝職場放棄事件〟最悪の場面を見せてしまった…【駒田徳広 連載#20】
日本一ビールかけ会場の謝罪で水に流したやくみつるへの怒り
1998年、横浜が38年ぶりの日本一を決めた西武との日本シリーズで、ボクは一人で怒りに燃えていた。1、2戦で8タコに終わったボクは、横浜ファンのやくみつるから「死に馬は去れ」と酷評されたのだ。
「何て失礼なヤツなんだ!」。たまたまその番組を見ていたボクが、じっとしていられるハズがない。やくみつるも昔からの横浜ファンだったから“ヨソ者”のボクのことを良く思っていないのは容易に理解できたけれど、それにしても許せない発言だった。
漫画でもボクのことを好き勝手に描いていたようだし、どうして人を傷つけるものを平気で描けるのか全く理解ができなかった。週刊誌なんかよりよっぽどタチが悪いし、だからボクはプロ野球をネタにした漫画が大嫌いだった。
早速、球団に厳重に抗議を申し入れるようにお願いした。だが、やくみつるが出演していたテレビ局は球団の大株主だといい、だから「球団としての抗議はできない」と言われてしまった。「あんなことを言われて黙っていなくちゃいけないんですか! 球団は選手を守ってはくれないんですか!」。納得なんてできるハズがなかった。
そのヤリ場のない怒りをグラウンドに向けた。第3戦以降のボクはとにかく打ちまくり、MVPを獲得した鈴木尚に次ぐ7打点をマークし、優秀選手賞を獲得した。認めたくはないけれど、結果的には「死に馬」発言が発奮材料になったのかもしれない。
ただ、それで一件落着したわけではない。「どうしてくれようか…」と思いをめぐらせていると、日本一になった直後のビールかけの会場で、やくみつるの姿を発見したのだ。
おそらくボクが怒っていることを聞いていたのだろう。やがてビールかけが始まると、やくみつるはボクのところへ飛んできて「スイマセンでした!」と頭を下げてきた。こうなるとボクも弱い。おめでたいビールかけの会場で怒るわけにもいかないし、こっちだってビールかけを楽しみたい。「もういいよ!」。とにかく、やくみつるの“作戦”にはまんまとハメられてしまった。
そんなこともあって横浜でも日本一になることができたけれど、巨人で教わった「チームプレーを第一に考える野球」と権藤さんの「ノーサイン野球」「ノビノビ野球」は全くの正反対。野球にはいろいろあるものだ。だが、ボクはすぐさま勝ち続けるためにはやはり「巨人の野球」が必要なんだと思わされることになる。あれほど強かった横浜は、あっという間にバラバラになってしまったからだ。
権藤監督がお気に入りの選手だけを「囲う」ようになり…チーム崩壊
1999年の横浜は3位に終わった。前年に日本一に輝いたことでボクたち選手は「しばらくはオレたちの時代が続くぞ」と手応えを感じていたし、実際まだまだ伸び盛りの選手が揃っていた。だが、あれだけまとまっていたチームはいつの間にかバラバラになり、ベンチの雰囲気もどんどんおかしくなっていった。
バラバラになった原因は、選手のモチベーションが低下してしまったことに尽きるだろう。「優勝」という目標に向かって一致団結していた横浜の選手たちは、その目標を達成してみな“おカネ持ち”になってしまったし、新たに出来高契約を結んだ選手は個人プレーに走るようになり、起用法などについても不満が出るようになった。
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