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「四天王プロレス」とは何だったのか?【小橋建太連載#7】

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1995年、震災直後の川田戦が俺を変えた

 田上(明)さんが12月に引退する。セレモニーには俺も花束を持って行きたいと思っている。「これで四天王プロレスが幕を閉じる」という声も聞く。もうとっくに後輩たちの時代が始まっているし、それでいいと思う。改めて四天王とは何だったのか。

 1993年12月の世界最強タッグ決定リーグ優勝戦で、俺は初めて川田(利明)さんからフォールを取った。この時期から「四天王」という呼び名がついたんだけど、俺は一番年下。三沢(光晴)さん、川田さん、田上さんからフォールを取ったことはなかった。必死に上を目指した結果、「四天王」という名前に到達したと思う。

 三沢さんとは97年1月の3冠戦から30分、40分を超える戦いが始まるんだけど、その前に立ちはだかったのが川田さんだった。95年、阪神・淡路大震災のあった年は忘れられない。京都のおふくろ、兵庫の祖母の安否が分かったのは震災翌日だった。そんな状況で大阪府立体育会館(1月19日)で試合を開催した。皆プロレスどころじゃなかったはずだ。しかし決まった以上、やるしかない。

阪神・淡路大震災の2日後には、川田と60分引き分けの激闘を展開した

 結果は初めての60分フルタイムドローだった。あの時は集まってくれたファンのみんなから逆に力をもらったような気がする。みんなに少しでも元気になってほしいと戦っていた俺のほうが勇気づけられた。今でも確信するが、確かにみんなの力だった。東日本大震災の後に開催した「ALL TOGETHER」(2011年8月日本武道館、12年2月仙台)では2回メーンに出たが、同じことを感じた。生きようとする力、プロレスによって明日を生きようとする元気が湧いてくれれば、こんな幸せなことはない。


 そして川田さんとの60分フルタイムドローは、確実に俺の実力を引き上げた。この年の1月は大分(7日)でスティーブ・ウィリアムスと30分ドロー、川田さんとのドローの5日後には、山形の世界タッグ戦(24日)で60分ドロー。わずか3週間弱で150分を戦ったことになる。もうこの時期は、何をやられても大丈夫だと思っていた。2階から落ちても受け身を取れる自信があったよ(笑い)。

「ALL TOGETHER」で武藤(奥)とタッグを結成した小橋(11年8月、日本武道館)

 三沢さんは亡くなった。俺は引退して、田上さんも引退する。でも後悔はない。「あんな激しいプロレスをしていたから選手寿命が縮まった」という声も聞くが、それは違う。お互いがさらなる高みを目指して競り合ったからこそ、輝いた時代だ。限界なんて決して訪れることはないと信じていた。あのころ未来は永遠にも思えた。言葉にはしなくても、4人が4人とも「誰にもできない試合をやろう」と覚悟を決めて戦っていた。その輝きを、俺は永遠に誇りと思いたい。

 四天王の時代が終わったとしても、次の時代が始まっている。プロレス界は発展し続けているんだから、その事実は静かに受け止めようと思う。

新団体ノアが旗揚げされるまで

 全日本が分裂して、準(秋山)のバーニングは全日本に残ると決めたらしいね。自分で決めた以上は頑張ってほしいけど、準なら大丈夫だろう。バーニングは俺と準で1998年9月に始めたんだけど、ひょっとしたら米国に渡る可能性もあったんだ。

 その時は会社からのプッシュがあったわけじゃない。完全に自主的な行動で博多大会(8月31日)の試合後に準と俺、志賀(賢太郎)、金丸(義信)の4人でスタートさせた。翌日からは新幹線の切符を自分たちで取って、バスには乗らず下関まで移動した。

 もしこの行動で会社に迷惑がかかって何か言われるようなことがあれば「米国に行って試合をしようか」と話し合っていたんだ。結果的には何のおとがめもなかったから実現しなかったけど、あの時、準と米国に行ってたらどうなっていただろう。レンタカーで米国を横断して、あちこちの試合に出ていたのかな…。

 そのころだ、馬場さんの背中が少し寂しく感じられるようになったのは。それまでは決してなかったことなんだが、自分の試合が終わると会場を後にすることもでてきた。12月には風邪で試合を休んだりもした。大丈夫かなと思いながら年を越し、新春シリーズは馬場さんは欠場のまま終えた。そして1月31日、俺はおふくろから「馬場さんが亡くなったって本当なの?」という電話を受ける。
「そんなわけないだろう」と答えたが、うわさはあっという間に日本中に広がって俺は三沢さん、川田さん、田上さんと会社に呼ばれ、馬場さんが亡くなった事実を告げられた。信じられない。自宅にうかがってその安らかな顔を見て、初めて実感が湧いてきた。親父のような存在の馬場さんが亡くなってしまった…。

 できることはひとつしかない。馬場さんのプロレスを守ることだ。この年の5月2日には全日本2度目の東京ドーム大会を成功させ、新社長に三沢さん、俺は取締役に就いた。希望を持って発進した新体制だったが、オーナーである元子さん(馬場さんの夫人)と三沢さんの間にあつれきが生じてしまう。

全日プロ新社長就任会見時は、にこやかに握手を交わした元子夫人と三沢新社長だったが…。左は百田副社長、右は川田副社長(いずれも当時)

 三沢さんはやりたいようにやれないと嘆く。ある日、元子さんから「相談に乗ってほしい」と告げられた俺は馬場さんの自宅にうかがった。そこで「会社の株のすべてを三沢さんに譲ってください。絶対に三沢さんは元子さんの悪いようにしません。俺もそうならないようにしますから」と話した。元子さんの答えはこうだった。「馬場さんのものは髪の毛一本も譲りたくないの」。こうなるともう仕方がない。間に挟まれる格好になった俺は、三沢さんにそのままの通り伝えた。

 三沢さんは「分かった」とだけ言ったような記憶がある。そのうちに「もう会社を辞めて新しい道に進むしかない」という言葉も聞くようになった。俺の答えはひとつしかなかった。「分かりました」。そうして2000年6月、ノアを旗揚げすることになる。3冠王者だった俺は、ベルトを返上するのが精神的につらかったが、新しい道に進む以上、仕方のないことだった。夢と希望を持って、俺たちはノアを旗揚げした。

三沢が新団体ノアを旗揚げ(00年6月、ディファ有明)

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こばし・けんた 1967年3月27日、京都府福知山市生まれ。本名・小橋健太。87年に全日本プロレスに入団し、翌年2月デビュー。四天王の一人として3冠ヘビー級、世界タッグ王座に君臨。2000年のノア旗揚げ後はGHCヘビー級王者として13度の防衛に成功し、鉄人王者と呼ばれる。06年に腎臓がんを患うも翌年奇跡の復活。その後は度重なるケガに悩まされ、13年5月11日に引退試合を行った。Fortune KK所属。

※この連載は2013年6月から7月まで全20回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全11回でお届けする予定です。また、最終回には追加取材を行った最新書きおろし記事を公開する予定ですので、どうぞお楽しみに!

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