最初で最後の救急車はスタン・ハンセンのせい【小橋建太連載#6】
ラリアートの使い方で控室に呼び出された
俺は何人か外国人選手にコテンパンにされながら、トップを目指していた。やはり一番忘れられないのはスタン・ハンセンだ。
若手のころはセコンドにつくたびにラリアートのエジキになった。当時のハンセンは、暴れだすと本当にブレーキが利かない怖い存在だった。止めに入った選手よりも、なぜか俺を狙うように、髪の毛を引っ張ってスコーンとラリアートを食らわすんだ。たまらなかったよ。でもその時期にボコボコにされたからこそ、後の俺があったと思う。
忘れられない大喧嘩がある。1995年8月の大館大会だ。俺がブルロープを奪って殴ったら、怒り狂ってイスで殴り返してきたんだ。
イスの関節部分が引っかかったのか、左腕の肉がえぐれた。骨が見えるほどの傷だ。それでもハンセンはブルロープを奪い殴り返してくる。もう頭の中が真っ白になった。
終了のゴングが鳴らされ俺は控室に戻されたけど、頭の中でブチッと音がした。凶器でやられたんだから一発殴り返さなきゃという気持ちだった。気が付けばイスを持ってハンセンの控室に殴り込んでいた。あとは大乱闘だ。メーンに出る三沢さんが、自分のテーマ曲が鳴っているのに「小橋、落ち着け!」と止めに来たほどの大暴れだった。
傷を見て慌てた元子さんが救急車を呼んでくれたんだけど、病院なんか行きたくない。
でもある先輩に「せっかく呼んでくれたんだから」と諭されて救急車に乗った。最初で最後の救急車だ。結局、22針も縫う大ケガだった。そういえば翌日の試合、ハンセンは傷口を狙ってきたな(笑い)。
そんな騒ぎがあった翌年のことだ。俺はムーンサルトプレスをフィニッシュにしていたんだけど、何か代わる技はないかと模索していた。そのころ、大阪でパトリオットにラリアートで勝った試合があって「これはいけるんじゃないか」と思ってね。俺はハンセンより腕が太いから、当たる面積が多い。それにスピードを加える。「よし、ラリアートでやっていこう」と決心した。
するとある日、ジョー(樋口レフェリー)さんが「小橋、ハンセンが呼んでるぞ」と言うじゃないか。さすがに身構えて控室へ行くと、ハンセンは静かにこう話した。
「コバシ、今の選手は何度もラリアートを乱発するが、そんなものはラリアートではない。使うなら一発で仕留める。その気持ちを忘れずに使ってくれ」
ハンセンのプライドだったと思う。俺は本家からラリアートを使うことを正式に認められたわけだ。正直うれしかったね。
ハンセンにラリアートで勝って3冠王座を防衛した試合(1996年9月5日)は、さすがに感無量だった。その試合で初めて東スポの1面を飾ったんだよな。通算成績は5勝10敗2分け。でも数字以上のものを得たと思う。ハンセンもある意味、“師匠”のような存在だったのかな。
最後までナイスガイだったスティーブ・ウィリアムス
スタン・ハンセン同様、ボコボコにされながらも立ち向かっていったのがスティーブ・ウィリアムス(故人)だ。あの殺人バックドロップは本当にすごかった。
俺は1993年5月21日の札幌大会で初めてテリー・ゴディからフォールを取った。この試合のころから「四天王」と呼ばれ始めるんだけど、その直後にウィリアムスと3冠挑戦者決定戦(93年8月31日、豊橋)で当たったんだ。当時「すごい試合」と評価された内容で、俺にとっても忘れられない一戦だ。ウィリアムスのバックドロップで何度も脳天から垂直に落とされて、最後は負けた。でも正面からトコトンやり合える相手だったね。ウィリアムスも「コバシとの3冠戦(94年9月3日、武道館)がミーのベストバウトだ」と言っていたらしい。
レスリングで全米を制した割には不器用で、ゴツゴツとした選手だったけど、なぜか試合での波長は合った。リングを下りれば穏やかな男だったしね。喉頭がんで亡くなった時はショックだったけど、俺は彼の引退試合(2009年10月に予定)では花束を持ってIWAジャパン(浅野起州社長)のセレモニーに行こうと決めていたんだ。
でも容体が悪化して引退試合は延期。結局、その年の12月に亡くなってしまったから、結局花束は贈れず、ねぎらいの言葉もかけられなかった。彼は俺が腎臓がんになった時も、気遣ってくれたと聞いている。最後までナイスガイだった…。
そういえば引退試合の時は、ジョニー(エース)のメッセージが一番最初に会場で流れたんだよな。今はWWEの幹部になっちゃったけど、俺の引退を聞いて直にメッセージを送ってくれたらしい。
年もひとつしか違わないし、話しやすかった。というか俺は英語が得意じゃない。ジョニーも日本語を覚えようとしている。そんなこんなで中間点というか「なあ、ジョニー」「イエス、コバシ」というような、2人だけの会話が成立したんだよな。ジョニーとのコンビはまさに「青春マンガ」だったね。アジアタッグを取って、パトリオットも交えてGETを作ったり、思い出は尽きない。
彼は俺たちが全日本プロレスを辞めてノアを旗揚げした時に、スパッと現役を退いた。気持ちの線が切れたんだろう。その後はビンス・マクマホンの信頼を得てWWEの要職に就いた。まあ当時からクレバーな男だったから、うなずける話だ。米国遠征(05年9月)に行った時は、ミズーリ州エルドンで約5年ぶりに会った。すっかり表情も温和になっていた。引退した今、もう一度会ってあの笑顔を見たいよね。
※この連載は2013年6月から7月まで全20回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全11回でお届けする予定です。また、最終回には追加取材を行った最新書きおろし記事を公開する予定ですので、どうぞお楽しみに!