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フロリダで初めて見たグレープフルーツ「なんだよ〝ぼんたん〟じゃないか」【定岡正二連載#12】

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ロサンゼルスでいきなり交通事故

「うわーっ、すげえ!」。眼下に広がるロスの夜景は、まるで宝石のようにキラキラと光り輝いていた。1975年春、巨人は1次キャンプ地の宮崎から、2次キャンプ地の米国・フロリダ州のベロビーチへ。ルーキーでただ一人、渡米メンバーに選ばれたボクを含めた巨人軍一行はまず、経由地のロサンゼルスに立ち寄った。 

 これがボクにとっては初めての“海外旅行”。しかもあこがれの大リーガーたちと一緒に練習できるのだ。期待に胸を高鳴らせながら、ボクは飛行機の窓に顔をべったりとつけ、いつまでもロスの夜景に見とれていた。

 とにかく初めての米国では、滞在中にいろいろな事件が起きた。まずはロスの空港からホテルに向かう車中での出来事だ。ボクは右の後部座席に座っていたのだが、交差点に差し掛かったところで、けたたましいクラクションとともに信号無視の暴走車が猛スピードで突っ込んできたのだ。

「あっ、危ない!」。思わず声を上げた次の瞬間「ドカーン!」。暴走車がクルマの右側面に激突した。ちょうど右側に座っていたボクは、もちろん車中で吹っ飛ばされた。「巨人の定岡、交通事故でロスに死す」。思わずそんな新聞の見出しが頭に浮かんだほどの、衝撃的な事故だった。

 暴走車のドライバーは飲酒運転だった。だが、頑丈なクルマだったことが幸いしたのだろう。右側面は大きくへこんだものの、奇跡的にケガ人はいなかった。別のクルマでホテルへ向かう途中「何てアメリカは怖いところなんだ」と震えが止まらなかった。

定岡にとってのベロビーチキャンプは、初体験の連続だった

 この事故はマスコミなどで報じられることはなかったが“表”に出ないアクシデントはこれだけではない。ロスからベロビーチへ向かう空港では、巨人の選手全員が乗り込んだ専用機に“異変”が起きている。

「さあ、出発」というところで「おい、飛行機から煙が出ているぞ!」と誰かの怒鳴り声が聞こえたのだ。窓の外を見てみるとエンジンから黒い煙がもくもくと…。ボクたちは慌てて飛行機の外へと“脱出”し、事なきを得たが、あのまま気づかずに出発していたらどうなっていたことか。「さすがジャイアンツだ。強運の持ち主が揃っているな」。あの時は妙に感心したことを覚えている。

 さらにベロビーチではこんな事件も起きた。キャンプ休日にホームパーティーに参加した時のこと。先輩選手がふざけて壁にかけてあったライフルを手にしたところ「バキューン!」と銃声がとどろいたのだ。空砲だったおかげで何事もなかったけれど…。米国は「銃社会」であることをつくづくと思い知らされた。

「日本は本当に平和な国なんだなあ」。初めての米国での生活は、何かにつけて日本の平和さを実感させられた日々だった。

定岡は初めての海外にカルチャーショックを受けた(1975年3月、ベロビーチ)

ドジャース選手たちの「氷風呂」に驚いた

 フロリダの空は抜けるように青く、見渡す限りの果実畑からは何とも言えない甘いにおいがした。巨人入団1年目の1975年春、ボクは米国・フロリダ州で行われたベロビーチ・キャンプに参加。初めての海外は見るもの、聞くものすべてが新鮮で、大きなカルチャーショックを受けた。

「定岡、フロリダのグレープフルーツは最高にうまいぞ。おまえグレープフルーツって知ってるか?」。先輩からそう聞かれたボクは「グレープ」というぐらいだから「ブドウ」のことだろうと考え「それぐらい知ってますよ。アメリカの大きなブドウのことでしょ」と答えて大笑いされた。

 当時の日本ではまだ、グレープフルーツを食べる習慣はそれほどなく、地元の鹿児島でも目にしたことがなかった。だから実際に“本場”のグレープフルーツを目の当たりにした時も、色や大きさから「何だよこれ、鹿児島の『ぼんたん』じゃないか。先輩たちはまた、オレをだまそうとして…」なんて思ったほど。恥ずかしながらあの時のボクは「グレープフルーツの色はブドウと同じ紫色だ」と信じて疑っていなかった。

 ドジャースとの合同練習でも新しい発見の連続だった。実績のある大リーガーたちは軽い練習メニューだけですぐにいなくなるのに、マイナーの選手たちはいつまでも基礎練習を繰り返し、それこそ小学生のようにワンバウンドの捕球練習を何時間でもやっていた。

定岡(上)は合同練習で新しい発見の連続だった(1975年3月、ベロビーチ)

 球場のロッカーにはそんなマイナー選手たちの名前がガムテープの上に書かれていた。「ネームプレートぐらい作ればいいいのに」と思っていると、数日後にはそのガムテープがはがされ、違う選手の名前が書かれたガムテープに張り替えられるのだ。見込みのない選手は日替わりのようにクビにされる…。基礎練習の大切さ、そして生存競争の激しさをあらためて思い知らされた。

 体の手入れについても驚いた。施設内にはステンレス製のお風呂がたくさんあって、練習を終えたドジャースの選手たちは次々と“氷風呂”に飛び込んでいった。いわば全身を冷やすアイシングだ。当時の日本球界の考え方では肩を冷やすことは「タブー」とされていたから、お遊びでプールに入ることも禁じられていたのだが…。

 ただ、いくらドジャースがやっていることとはいえ、こればかりはそう簡単に受け入れることはできなかったらしい。気持ち良さそうに氷風呂に漬かっている選手たちの姿に目を丸くしているボクたちは、長嶋茂雄監督の「あいつら外国人は細胞が違うんだ。冬でも半袖だろ!」というひと言で「それもそうだな」と妙に納得した。

あいつらは細胞が違うんだ!長嶋監督の言葉は妙に説得力があった

 日本に本格的なアイシングが導入されたのは、それからずっと後のこと。凝り固まった「常識」は、そう簡単には変えられないということなのかもしれない。

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さだおか・しょうじ 1956年11月29日生まれ。鹿児島県出身。鹿児島実業高3年時の74年、ドラフト会議で巨人の1位指名を受け入団。80年にプロ初勝利。その後ローテーションに定着し、江川卓、西本聖らと3本柱を形成するも、85年オフにトレードを拒否して引退を表明。スポーツキャスターに転向後はタレント、野球解説者として幅広く活躍している。184センチ、77キロ、右投げ右打ち。通算成績は215試合51勝42敗3セーブ、防御率3・83。2006年に鹿児島の社会人野球チーム、硬式野球倶楽部「薩摩」の監督に就任。

※この連載は2009年7月7日から10月2日まで全51回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全25回でお届けする予定です。


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