見出し画像

最後の相手〝へそ曲がり〟田村潔司には感謝しかない【高田延彦連載#9】

 前の話へ / 連載TOPへ / 次の話へ

妻・亜紀のがん闘病を振り返ると…

 1998年10月に2度目のヒクソン・グレイシー戦を終えてからは毎回「これが最後」と自分に言い聞かせながら戦い続けました。対戦相手も強いし、PRIDEそのもののレベルが上がっている。自分がグッドパフォーマンスを見せられないことは分かっていた。それでも求めてくれるのであれば…。そんな1回ずつの積み重ねが、35歳以降の現役生活につながったと思います。

 妻が病魔に襲われたのは2000年9月のことでした。病名は子宮頸がん。もちろん当時は大変でした。私は毎日が練習場と病院の往復で、妻の笑顔や少しでも元気な姿を見たい一心だった。今思うと、そういう生活になると頑張れちゃうんだなって思いますね。苦しいけど、妻のちょっとした笑顔や言葉で疲れが吹き飛びました。

 この時のことを振り返って改めて痛感するのは「気持ち」の重要さ。人間が前に進む時、大きな力を与えてくれる「気持ち」です。当時は必死でしたけど、その中で小さなハッピーを与え合いながら生きていた。

妻・向井亜紀(右)はその後にがんを克服(写真は2004年1月の出生届け提出時)

 今ですか? 申し訳ないけど、幸せですよ(笑い)。子供の教育で気を付けているのはあいさつとか、食事のマナーとか、ウソをつかないこととか、基本的なこと。特別なことはありません。日頃から小難しいことは言わないようにしているんです。

 子供は自分で目にして耳にして、将来を選択していけばいい。いろんなことを経験して、自分の頭と心でもみほぐして、いいものを定着させていく。そうやっていくのが一番いいんじゃないかと思っています。

 話をリング上に戻しましょうか。

 ヒクソン戦後に1試合ずつ戦ってきて、引退を決めたのは02年のことです。5月くらいに「次で最後」という話をPRIDEの主催者側にしました。具体的に「これ」という原因はなかった。何がどうさせたかわからないけど、冬が終わるころ「次を最後にしよう」と思ったんです。

 そう考えるということは、もう疲れていたのかもしれない。実は前年01年11月のミルコ・クロコップ戦でローを蹴った時に骨折して右足首がハンドボールくらいの大きさに腫れたんです。結果は引き分けだったんですけど、それが全然良くならないまま、今度は大みそかにマイク・ベルナルドと試合をして引き分けに終わった。

ミルコ(右)にローキックを放つ高田氏(2001年11月、東京ドーム)

 私は20代後半のころから、40歳で引退したいと考えていた。「プロスポーツ選手は頑張っても40歳までだろう」というイメージがあったから。それで誕生日の4月が近くなるにつれて「あ、もう40近いな。そろそろだな」と急激にそんな気持ちになっていました。

 その意向をくんでもらい、引退試合を02年11月24日、東京ドームの「PRIDE・23」でやらせてもらうことになりました。対戦相手は吉田秀彦選手などが候補に挙がる中、最終的にはUWFインターの後輩である田村潔司に決まりました。

「高田さんの引退だから出る」と言ってくれた桜庭和志

  引退試合は2002年11月24日、東京ドームでの「PRIDE・23」で行いました。対戦相手は田村潔司。最後の相手についてはいろいろ浮上しましたが、私自身はそんなに悩むことはなく「田村なら全然ありがたい」という気持ちでした。

 当時としてはちょっとコアな選択だったと思います。私と田村とのストーリーを知らないPRIDEファンもたくさんいましたから。でもUインター時代に、田村が挑戦を表明してきたこと(1998年8月18日)があって、その時は受けてあげられなかった。“宿題”みたいな気持ちも少なからずありました。

引退試合は田村(右)の前にあえなく2ランドで沈んだ

 結果は2RでKO負けでしたけど…。それにしてもあの“へそ曲がり”がよく出てきてくれたなと思いますよ(笑い)。今でも彼には「ありがとう」という感謝の気持ちでいっぱいです。やりにくかったと思いますよ。

 ちなみに当初はPRIDEの主催者側から「メーンでやってくれ」と言われたんですけど、断りました。あの時のPRIDEで、引退試合なんかメーンに持っていったらお祭りになってしまうし、私には荷が重すぎる。「メーンは桜庭(和志)しかいないだろう」と私から言いました。

 実は当時、彼はヒザの靱帯を断裂してたんです。欠場してもおかしくない状態だった。でも「高田さんの引退だから出る」って言ってくれたんですよ。ケガの状態は分かっていたから胸が熱くなりましたね。であれば、メーンは桜庭しかいない。彼も「僕はメーンじゃなくて」という話はしていたみたいなんですが、結局私はセミで、メーンが桜庭(ジル・アーセン戦)になりました。

 鮮明に覚えていることがあります。あれには参っちゃったけど…。引退セレモニーが終わってバックステージに戻る時、ちょうど桜庭とカーテンの向こう側ですれちがった。するともう入場テーマがかかっていたのに、彼が泣いてたんです。数秒後にカーテンが開いて、人生をかけた戦いへと向かうにもかかわらず…。私も感傷的になって、込み上げてくるものがあった。PRIDEでも私の中で強く残っているワンシーンですね。

引退セレモニーで桜庭(右端)、田村(左端)、師匠のアントニオ猪木(左から4人目)らに囲まれる高田氏(2002年11月、東京ドーム)

 引退後、私はPRIDEの統括本部長として大会に関わらせてもらいました。でもやっぱり…選手のほうが100倍いいです(笑い)。好きなこともわがままも言えるし、やりたいようにできる。やっぱり、あそこは選手でいたい空間ですよ。できなくなっちゃうと、いろんなことを考えさせられます。やっぱり「戦う者」としてあの空間にいる以上の幸せはないですね。

 前の話へ / 連載TOPへ / 次の話へ

たかだ・のぶひこ 1962年4月12日、神奈川・横浜市出身。80年に新日本プロレスに入門。81年5月の保永昇男戦でデビュー。84年に新団体UWFに移籍。第2次UWFを経て、91年にUWFインターを設立し「最強」の称号を得る。新日本プロレスとの対抗戦は日本中を熱狂させた。解散後はPRIDEに戦場を移し、ヒクソン・グレイシーら強豪と激闘を展開。98年に高田道場設立。2002年11月24日の「PRIDE・23」(東京ドーム)の田村潔司戦を最後に現役を退く。引退後はPRIDE統括本部長に就任してタレントとしても活躍。夫人はタレントの向井亜紀。

※この連載は2016年11月22日から12月29日まで全22回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全11回でお届けする予定です。


カッパと記念写真を撮りませんか?1面風フォトフレームもあるよ