ヒクソン・グレイシーに二度負けてわかったこと【高田延彦連載#8】
「強い」の上に「達人」の領域がある
1997年10月11日、私はヒクソン・グレイシーと戦うため、東京ドームのリングに立っていました。
しかし戦う前からヒクソンの「幻想」に圧倒されていたのです。だからなのか妙に冷静だった。リング上で「俺、今からこいつとやるんだよな」なんて思ったり…。本当はそんなこと絶対にいけないんだけど、オーラを感じました。黒光りしてつやつやしてヒョウみたいだった。
戦う前からそんな感じでしたから、試合が始まったらもう…。試合直前に呼んだ(練習パートナーの)セルジオ・ルイスから「殴るな」「蹴るな」「組むな」「寝るな」と言われたこともあって、自分から間合いを詰めることができず、最終的にああいう結果に終わった(1R4分47秒、腕ひしぎ十字固めで敗戦)。
その後は連載の最初に話したように2~3か月ほど自堕落な生活を送ったんですが、主催者側から再戦するお話をいただいて、もう一度前を向くことができました。
再戦に向けて一番変えたかったのは精神状態です。最初の時のように戦う前から圧倒されて消極的な気持ちでリングに上がることだけは、絶対にやめたかった。まず「練習場を作らないといけない」となって立ち上げたのが高田道場です。
ヒクソンについては「こんなおっさん、興味ねえ。リングに上がって、ゴングが鳴ったら目を合わせればいい」と考えるようにして準備を進めました。とにかく自分のことだけを考えて、食事も生活スタイルも練習も以前に戻して…。精神状態を「戦いたくて仕方がない」という状態に持っていくことだけに集中しました。
そこは思う通りに運んだ。「PRIDE・4」(98年10月11日、東京ドーム)は心地よく当日を迎えられました。ただ一朝一夕であのレベルにはなかなか…(1R9分30秒、腕ひしぎ逆十字固めで敗戦)。
ヒクソンと2回戦って分かったことは「強い」の上に「達人」の領域があることです。彼の場合、その達人の域なんでしょう。私は2回とも腕十字で負けたわけですが、あの体勢から腕十字が来るというのは百も二百も三百も承知だった。そこで「ニュルッ」と持っていく“肌感”というかタイミング、スピード、柔らかさ、呼吸。そういうものを特に2回目で感じました。「居合」のようなイメージと表現すればいいのかな。
そんなヒクソンと、今ではRIZINで顔を合わせています。同じイベントの空間にいて、格闘技をともに盛り上げているというのが何よりうれしい。ヒクソンも、息子(クロン)のことになるとやっぱり親父の顔になるから面白いですよね(笑い)。
ヒクソンの息子クロンはMMA界への〝ギフト〟
1998年10月11日、ヒクソン・グレイシーとの再戦に敗れた私は、複雑な心境でした。ファンや主催者に対しては「申し訳ない結果に終わっちゃったな」という気持ちだった。「2ラウンド行きたかったな」っていう悔しさもあった。その一方で「2回やらせてもらって、幸せ者だ」とも思いました。
今、彼は息子クロン・グレイシーのセコンドとしてRIZINに来ていますけど、私としては同じイベントの空間にいるだけで満足ですよ。しかしクロンは父親に似てるよね(笑い)。顔だけでなく雰囲気や発言までそっくり。コピーじゃなくてオリジナリティーもある。よくまあ、あそこまで育て上げましたよ。それで息子が勝つと、ちょっとキャッキャしている(笑い)。自分が勝っても全然喜ばないでムッとしてたのに。それが親父なんですよ。
クロンはまさにヒクソンからMMA界へのギフト。若い人がクロンを見れば、今度は父親ヒクソンを知りたくなる。そうすると私の映像を見られて、いろいろとまた突っつかれるんですが(苦笑い)。ただ、クロンの大みそかの相手は強いですからね。(元UFCファイターの)川尻達也だから。どうなるか、私も個人的にも楽しみです。
話を戻すと、その後のPRIDEはクオリティーの高い選手が、クオリティーの高い試合を見せ、それを繰り返してバリューアップしていきました。あそこまで化けるとは、誰一人思わなかったでしょう? 携わる人間が夢中になれば、ファンに伝わるじゃないですか。つくっている人間の熱さがいい形で伝わり、集まってきた質の高いファイター一人ひとりが進化して、いい形で転がり続けたのが、あの時代のPRIDEでした。
そして日本人にもいい選手が多く出てきました。「ミスターPRIDE」と呼ぶべき選手も何人かいたと思う。日本人では間違いなく、桜庭和志と吉田秀彦(バルセロナ五輪柔道金メダリスト)です。この2人の存在なくしてPRIDEは語れない。吉田が出てきたことでメダリストも柔道家もずいぶん出てくれた。桜庭がいることで外国人選手が光った。
特に桜庭は「プロ中のプロ」ですよ。まさに「オンリーワン」な雰囲気を持っている。唯一無二です。他にも名前を挙げたらきりがないですけど、みんなキャラクターが強かった。スタイルも画一化されなくて、それぞれが持ち味を試合の中で見せてくれました。
その中で私も2002年11月の引退試合まで戦い続けました。しかし想像もしなかったことが、平穏だった私の家庭を襲います。妻(向井亜紀)が子宮頸がんを患ってしまったのです。
※この連載は2016年11月22日から12月29日まで全22回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全11回でお届けする予定です。