悪魔仮面に変身を遂げた石澤。やりたい放題の末、2000年〝総合格闘技の旅〟に出る 【ケンドー・カシン評伝#2】
石澤とは全く別人格のカシンに変身!無礼かつ理不尽、傍若無人で悪態をつく…ひどい話だ
1996年3月にヤングライオン杯を制した石澤は同年7月、ドイツへ遠征する。ここでレスラー人生最大の転機が訪れた。現地のプロモーター、オットー・ワンツにマスクマンへの変身を要請され、ケンドー・カ・シン(後にカシンに改名)となる。現地で活躍した後、97年4月に凱旋帰国を果たした。覆面や変装は人間を変えるというが、カシンは石澤とは全く別人格のような無礼かつ理不尽なキャラに変身する。
IWGPジュニアヘビー級王座を初戴冠したケンドー・カシン(99年8月、神宮球場)
勝利後に「おめでとうございます」と祝福されれば「余計なお世話だ」と答え、本紙記者にも厳しい洗礼を施すようになった。若い記者の態度が気に入らなかったのか、いきなりノートを叩き落としたり、何の落ち度もない本紙記者を誰かとカン違いして「お前、改心したのか! どうなんだ!」と詰め寄ることもあった。
退場時には認定証をビリビリに破る(99年8月、神宮球場)
後にPRIDEに出場する前、「PRIDEに出るんですか?」と聞いた入社1年目の新人記者は「お前が出ろ、お前が」と蹴られてしまった。数年前には、説教した際の態度が悪かったとの理由で「永遠絶交」された記者もいる。本当にヒドい話だ…。
しかしそんなヘソ曲がりキャラがファンにバカ受けしたのだから世の中分からない。99年にはIWGPジュニアタッグ(1月)、ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア制覇(5月)、IWGPジュニア王座獲得と一気にブレークを果たした。傍若無人ぶりはエスカレートする一方で、トロフィーを蹴飛ばしてベルトを放り投げ、賞状を破り、報道陣に悪態をつくなど暴挙に歯止めがかからなくなったが、人気はうなぎ上りとなった。
IWGPジュニアベルトとトロフィーを踏みつけるカシン(手前は松井大二郎、02年10月・東京ドーム)
猪木の指令で総合格闘技に進出するも、プロレス巡業で打撃を練習する場所も時間もない…
女子人気が異様に高いのも特徴だった。そして2000年には周囲が期待していた待望の総合格闘技にも進出を果たす。「PRIDE10」(8月27日、西武ドーム)で「石澤常光」としてハイアン・グレイシーとの激突が決定したのだ。
ヘンゾ・グレイシー(右)と対面した石澤。このときはまだハイアンと戦う運命を知らない(00年6月、名古屋)
師匠のアントニオ猪木氏の指令により出陣が決まったのだが、当初はヘンゾ・グレイシーが相手のはずだった。出場を予告する形で「PRIDE9」(6月4日、名古屋)にリングサイドで観戦。無言で会場を後にしたが、覆面の下の素顔は戸惑っていた。
「巡業もあるからキャンプもできない。1日100円の使用料を払い、当時新宿スポーツセンターでやっていた菊田(早苗)さんのGRABAKAの練習に参加してました。菊田さん、高橋(義生=パンクラス)さん、ネイサン・マーコートたちとスパーリングしてました」
新日本プロレス巡業の合間に〝寝技世界一〟の異名を取った菊田らと総合格闘技の練習にも明け暮れたが、急きょ相手がハイアンに変更となる。ここでカシンは重要な事実に気がつく。打撃を練習する場所も時間もなかったのだ。
「慣れないはだしで練習したから左足の裏の皮はめくれるし、パンチの練習もやる余裕がなかった。困ったなと思ったがどうしようもなかった。勝算も何も、準備不足で俺、本当にやるのかなあという気持ちだった。猪木さんから『結果はどうあれ、とにかくリングに上がれ』と言われたので勝つつもりで試合には出たけど、ああいう結末になってしまった」
ハイアンと戦う石澤(00年8月、西武ドーム)
結果はパンチの嵐を浴びてスタンド状態のまま初回2分16秒TKO負け。カシンの「最強伝説」が砕かれた瞬間だった。試合直後はマスコミも厳しい口調で記事を書いたが「新聞や雑誌、インターネットも含めて誹謗中傷の嵐。あれで心を鍛えられた。『ちゃんとやるならふだんから徹底的にやらなきゃダメだ』と心に決めました。その時の人間不信はまだ消えませんけどね、ああ…」とカシンは頭を抱えつつ「そういえば、ハイアンに負けた時の東スポを見忘れたから、縮刷版の記事を探してくれ。どれだけボロクソに書かれたかを確認したい」と言い出す始末だった。
ハイアンに雪辱した「石澤常光」の姿は最高に格好良かった
しかしここでヘソ曲がり男の津軽魂(かどうかは分からない)に火がつく。ハイアンへの雪辱を期して、同年9月からは1回も休まなかった道場の合同練習を欠席し、パンクラスの高橋、盟友の〝野獣〟こと藤田和之らと元WBA、WBC世界ジュニアライト級(現スーパーフェザー級)王者、沼田義明氏のジムに通い、ボクシングの練習に明け暮れる。
藤田和之とブライアン・ジョンストンのスパー(00年4月、新宿区)
さらには会社側の了解も得て、01年5月からシリーズを全休。当時新日本に参戦していた総合格闘家ブライアン・ジョンストンの手引きにより、カリフォルニア州サンノゼのアメリカン・キックボクシング・アカデミー(AKA)で約1か月半のキャンプを張る。
当時はMMAのジムも少なく、AKAには日本でもおなじみのフランク・シャムロック、元UFC世界ライト級&ウエルター級王者のBJ・ペン、元UFC世界ライトヘビー級王者のチャック・リデルらの超強豪が集っており、練習相手には事欠かなかった。
「あのキャンプがすべてだった。やっぱり試合前のキャンプは絶対必要。負けたら廃業という気持ちで試合に臨んだ」
石澤(01年大みそか、さいたまスーパーアリーナ)
そして2001年7月29日の「PRIDE15」(さいたま)でカシンはハイアンとの再戦に臨む。終始タックルを決めてグラウンドで自在に相手をコントロール。首を決めたまま顔面に鉄槌を打ち下ろし、圧巻の強さで試合を進めた。最後は押さえ込んだところから、苦し紛れにエスケープしようとしたハイアンがわき腹負傷で動けなくなり、カシンがTKO勝ちで見事にリベンジを果たした。
勝利後にコーナー四方に立って勝利をアピールする「石澤常光」の姿は最高にカッコ良かった。もちろん本人には死んでも直接言う気などない。言いたいならお前が言え、お前が。
「KOしたかったけど廃業から免れた安堵感でいっぱいだった。指を入れられて口の中をザックリ切りましたけどね」とカシンは振り返る。
同年大みそかの「INOKI BOM―BA―YE 2001」で正道会館の空手家・子安慎悟を相手に総合格闘技の試合を行うも、わずか2週間前に試合が決まってしまい、またもや準備不足に悩まされる。しかし「試合が決定した日、ある高貴なお方が、落ち武者の霊を除霊された瞬間を目撃して、これはやらなければならないと思ったんです。押忍」と、カシンは何だかよく分からない記憶を語る。
結局、試合はお互いに決め手を欠いて引き分けに終わった。かくしてカシンの「総合格闘技の旅」は、ハイアンへの雪辱という強烈な印象を残してひとまずのピリオドを打つ
石澤(上)と子安の攻防(01年大みそか、さいたまスーパーアリーナ)
新日本の総合格闘技路線に反発した武藤、小島聡らと全日本プロレスに電撃移籍するも、やはり…
しかし天下のへそ曲がり男が、そのまま穏便に日々を過ごすはずもない。2002年2月、カシンは新日本の総合格闘技路線に反発した武藤敬司、小島聡らと全日本プロレスに移籍を果たす。
全日本のリングでファンにあいさつする武藤と小島(左)とカシン(02年2月、後楽園)、下は都内ホテルでの新入団選手発表会見(左からカズ・ハヤシ、カシン、小島、武藤、スタン・ハンセン、馬場元子夫人、川田利明)
退団に際し、当時アントニオ猪木氏の夫人だった(故・田鶴子さん)の経営する店に行き、師匠の猪木氏に直接あいさつをした。なぜか猪木氏から「何か(カラオケで)歌え」と言われ、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」を熱唱したという。我々一般人には分からない深い師弟愛だ…。
熱唱する尾崎紀世彦(71年11月、日本歌謡大賞授賞式)
その際、猪木氏からは「お前な、ついていくヤツを間違えるとその後、後悔するぞ」とのアドバイスを送られた。カシンは「やっぱり猪木さんのいう通り、1年半後に心から後悔しましたね。ついていく人間を間違えました、ハイ」と振り返る。結局武藤全日本でも体制になじめなかったわけだ。
当初は道場のコーチも務めて新生全日本を支えていたが、持ち前の正義感と反骨心がうずいたのか、会社側の経営方針に不満を抱くようになる。
中西学(右)のレクチャーに聞き入る永田裕志とケンドー・カシン(05年7月、北海道釧路市)
そして04年6月12日、永田と世界タッグを奪取するも、プロレス界を揺るがす前代未聞の事件が起きる。いわゆる「世界タッグ王座ベルト返還訴訟事件」だ。(文化部専門委員・平塚雅人)
けんどー・かしん 1968年8月5日生まれ、青森県南津軽郡常盤村出身。91年、早大人間科学部卒業後、新日本プロレスのレスリング部門「闘魂クラブ」に入団、94年、正式に新日本プロレス入団。96年の欧州遠征でマスクマンに。PRIDEや全日本プロレスでも活躍。獲得タイトルはIWGPジュニアヘビー、世界ジュニアヘビーなど多数。181センチ、87キロ。