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悪魔仮面誕生前夜【ケンドー・カシン評伝#1】

はじめに

〝悪魔仮面〟ことケンドー・カシンは現在、ノアマットで傍若無人な活躍を続けている。無差別な罵詈雑言、卓越した実力に裏付けられたトリッキーなファイトで相変わらず熱狂的なファンは多い。必要最小限の友人しか持たず、マスコミには悪態をつき、マット界でも次々と新たな標的を見つけており、むしろ敵の方が多い。歴代本紙記者にも数々の暴言を吐いてきたが「カシンの情報は東スポでしか読めない」と言われて久しい。なぜ本紙は希代のヘソ曲がり男と、約30年も友好関係を保ってこられたのか。改めて検証したい。(文化部専門委員・平塚雅人)

カシン(右)が場外で金本浩二を腕ひしぎ逆十字固め(99年8月、神宮球場)

場外で金本浩二に腕ひしぎ逆十字固めを決めるカシン(99年8月、神宮球場)

カシンが東スポに初登場した日

 カシンは頑として否定するが、その正体は石澤常光ときみつであることは、神様のみならず誰でも知っている。青森・南津軽郡常盤村(現藤崎町)出身で、父親は元村長。実家は地元でも有名なトキワ養鶏(現常盤村養鶏農業協同組合)を営む名家に生まれた。

「現在、トキワ養鶏は経営権をめぐり内紛が(以下略)。とにかく僕は小6から東スポを読んでいます。朝、自転車で買いに行かなくちゃならないから、売店で1週間分取り置きしてもらって週末に取りに行っていた」ほど本紙の愛読者だった。

 今でも事あるごとに、現在のカシン担当で〝黒い虎〟こと前田聡記者のツイッターに「#みんなで読もう東京スポーツ!」の一文とともに、ありがたいような、危険スレスレの発信をしてくれるので泣けるほどありがたい。
「生まれた時からプロレスラーを夢見て」(本人談)、中学卒業後は名門・光星学院(現八戸学院光星高校)レスリング部に進む。「北の虎の穴」とまで呼ばれた強豪校で、当時は灯油をTシャツに染み込ませ、背後からコーチがたいまつの炎を持って追いかけ強制的にダッシュさせたり、鉄棒の下にストーブを置いて落ちないよう懸垂運動をさせたり、裸足で大雪の中を走らせたりなど、もはや劇画のような猛特訓が存在したとの伝説も残る。

「僕は1年生の時はマネジャー候補でコーチには無視されていたので、そんな厳しい指導は受けませんでしたけどね、ハイ」。2年時から頭角を現し3年時にはフリースタイル70キロ級で高校選抜と国体を制覇した。

「バスで大会開催地まで行って宿舎もバスだ。風呂は近所の八百屋のホースを借りて、水を浴びていた」というほどの過酷な状況だった。偶然、近くに大学社会人の選手の宿泊所があり「俺にも酒を飲ませろ~」と宿に飛び込んでいく前衆院議員(当時は石川・星稜高校教員)の姿を目撃した。

「大体、あの男は当時からだな…(以下略)」と当時から特別な感情を抱いていたようで、新日本プロレス入り後にコーチを受けるも、新日本を退団した後のレスリング会場で「お~いカシン~」と馳浩氏に声をかけられても「面倒だから」との理由だけで無視したらしい。ひどい話だ…。

 話を戻そう。石澤は周囲の期待を背負い、早大レスリング部へ進むと全日本学生選手権3連覇(88~90年)、全日本大学選手権2連覇(88~89年)、全日本選手権準優勝(89~90年=いずれもフリー82キロ級)を果たし、待望の「東スポデビュー」を果たしたのが89年10月24日。3年時に全日本学生選手権を連覇した後だった。

ケンドー・カシン、早大3年時の東スポ初登場紙面(89年10月25日付)

「早大・石澤の夢はIWGP王者」との見出しでりりしい表情の石澤の記事が掲載されている。

「天下の東スポでIWGPジュニアヘビー級王者になると言って現実になったんだから、まあいいんじゃないですか」

 大学5年時の91年に新日本プロレスの闘魂クラブに入門すると、同年の全日本選手権を制覇。バルセロナ五輪を目指しつつ、プロレスラーへの道を歩みだした。やがてカシン、いや、石澤は、本紙には欠かせない存在となっていく。

石沢常光が「闘魂クラブ」入り、右は長州力、左は馳浩(90年11月、事務所)

闘魂クラブに入った石澤。右が長州力、左は馳浩(90年11月事務所)

〝菅原文太〟に負けてアマレスリングを引退

 卒業後は闘魂クラブで〝無二の親友〟中西学、〝永遠の盟友〟永田裕志らと五輪を目指して、結局は中西がバルセロナ五輪に出場を果たした。その後いずれも1992年にプロデビューを果たした。本紙読者ならご存じだろうが、この3人、プロ入り後は石澤を中心に(というか元凶)、ああでもないこうでもないと不毛な議論といがみ合いを長い間、展開してきた。今さら説明するまでもないのでバッサリ割愛したい。

珍しく笑顔のケンドー・カシン、永田裕志、中西学(05年4月、広島市・サンプラザ)

珍しく笑顔のカシン、永田裕志、中西学(05年4月、広島サンプラザ)

 現在になってカシンは引退した中西に「汗と油にまみれながらも今の仕事で頑張ってほしいと思います」とエールを送り、新日本プロレスのミスター・永田には「この世に生を受けて名前も残した。今は夜もゆっくり眠れてるのでしょうね」と何だかよく分からないメッセージを送った。

 記者が石澤と初対面を果たしたのはデビュー前後だったと記憶する。当時は携帯がなく原稿のファクス送信のために、会社が各地方会場に臨時電話回線を設置した。ファクス機をリングトラックに積んでもらい、原稿を送信していた。

 若手たちは、試合後に先輩たちが宿へ戻るためタクシーを手配しなければならなかった。そこで各選手は東スポの臨時電話を使い、若い記者はその場を機に若手と会話を交わして顔なじみになっていくのが通例だった。

スタッフのIDで東京ドーム大会を観戦する「闘魂クラブ」石沢(91年3月)

スタッフのIDで東京ドーム大会を観戦する「闘魂クラブ」時代の石澤
(91年3月)

 いろいろな頼み方をする選手の中でも、端正な顔立ちで礼儀正しく「すいません。電話、お借りします」と丁寧に頭を下げる石澤の姿は妙に印象に残った。

 その後は練習後にムダ話をするようになるのだが、礼儀正しくさわやかな笑顔の裏には「何かあったらただではおかない」という刃物のような殺気を感じた。確かに最低限の礼儀を守らない記者には、静かな口調ながら厳しく注意していたことを思い出す。

 ある地方会場では他社のベテラン記者と取っ組み合いのケンカになりそうになり「どうした、おい。かかって来いよ。来てみろよ!」と挑発し、必死に他の若手選手に制止される光景に出くわしたことがある。通常の石澤とは別人のような鬼気迫る表情だった。

 単なる軽い口論から発展したものだったが、自然とこちらの背筋も正されるようになった。それは現在でも変わらない。同じ東北人ということで手が合ったのか、宮城県出身の記者とは幸い30年間、運よく何のいさかいも起きずに現在に至っている。とはいえ悪魔仮面の本心は分からないが…。

 石澤は順調にジュニアで活躍を続け、道場のスパーリングでも圧巻の強さを誇り、一目置かれる存在となっていく。しかし93年3月には予想外の〝事件〟も起きた。

藤田和之と永田裕志(98年)

新日入団後の藤田和之(左)と永田裕志(98年、道場)

 プロレスラーとしてレスリングのアジア選手権代表選考会フリー90キロ級に出場するが2回戦で現在の盟友〝野獣〟こと藤田和之(当時日大)に敗退。敗者復活戦では、菅原文太(当時大東文化大)という義侠心あふれる名前の選手に敗れ、順位なしに終わったのだ。「プロがアマに負けた」と各紙の論調は厳しかった。

「菅原文太のヤロー、こっちはポイント取りに行ってるのに巻き技ばかり狙ってきやがって、気がついたら負けてしまった。もうマスコミはボロクソだし、菅原文太と東スポの厳しい記事に心臓を拳銃で撃たれ、僕のレスリング人生は幕を閉じました。今思い出しても胸が痛い。ああ…」と頭を抱え込んだ。

 これが最後のレスリングの試合となり、石澤はプロレスに専念。そして96年3月、永田とのヤングライオン杯決勝戦を制し、海外遠征へのチャンスを得ることになる。

ヤングライオン杯決勝、永田と石沢(96年3月、東京体育館)

ヤングライオン杯決勝で永田(左)を破った石澤(96年3月、東京体育館)

 余談になるが、96年バルセロナ五輪開催前に現地を取材に訪れた際、石澤と永田に五輪Tシャツをおみやげに買ってきて4月の東京ドーム大会で渡した。第1試合にタッグで出場した2人は、さっそくそのTシャツをおそろいで着て入場してくれて、ちょっと感激した。あんな光景はもう二度と見られないのだろうか。

 そしてその2か月後の96年7月、石澤は欧州遠征に出発する。〝悪魔仮面〟ケンドー・カシン誕生前夜だった。(次回に続く

けんどー・かしん 1968年8月5日生まれ、青森県南津軽郡常盤村出身。91年、早大人間科学部卒業後、新日本プロレスのレスリング部門「闘魂クラブ」に入団、94年、正式に新日本プロレス入団。96年の欧州遠征でマスクマンに。PRIDEや全日本プロレスでも活躍。獲得タイトルはIWGPジュニアヘビー、世界ジュニアヘビーなど多数。181センチ、87キロ。


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