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ヒクソン・グレイシーと戦うか、法廷で戦うか?消去法のようになっていた【高田延彦連載#7】

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辞めるためにヒクソン・グレイシーと戦うつもりだった

 私が「辞めるために誰と戦うか」と考え始めた時、目前に現れたのが現RIZIN実行委員長の榊原信行氏でした。当時、彼は名古屋の東海テレビに勤めており、たまたまUインターの名古屋大会を手伝ってくれたんです。

 大会後の夜の打ち上げで意気投合しました。お礼を言って乾杯をして酒を飲んで…その時にもう気が合ったのかな。気がついたら最後はホテルの私の部屋で2人きりで飲んでいました。そして翌日、彼から電話がかかってきたんです。「昨日僕に言ったことを覚えてますか? ヒクソン・グレイシーの話」って。部屋で飲みながら「ヒクソンと戦いたい」と話していたんです。実は初めてヒクソン戦の希望を伝えた相手が彼。それまでは妻にさえ話したことがありませんでした。

 そのころ、ヒクソンの評価はさんぜんと光り輝いていました。ホイス・グレイシーが「自分より10倍強い」なんて言ったもんだから、幻想も広がっていた。だから「誰と戦って辞めるか」と考えた時に「世界最強」と呼ばれるヒクソン以外にはいなかった。

ホイス(左)の発言でヒクソン最強説はさらに広まった(1995年4月7日のウェイン・シャムロック戦)

 少なからず因縁もありましたしね。安生洋二が道場破り(1994年12月、米ロサンゼルス)に行ったり、Uインターとしてリング上から「俺たちと戦え」と宣戦布告したり…。ただ、私個人としてヒクソンの名前を口にしなかったのは、どこから手をつけていいか分からなかったからです。現実的につてもなければ、金もなかったわけですから。

 そんな時にヒクソンの名前が出た。榊原氏は「実は僕、来週名古屋でヒクソンの写真展をやるんです。そこでヒクソンに会います」と言う。もうこれは運命みたいなものじゃないですか。初めて言葉で伝えた彼が、すぐヒクソンに会うって言うんだから。「対戦したいという話を本人にしていいですか?」って言うから「ぜひよろしく!」と答えました。

 それが1回目のヒクソン戦の原点です。「最後のケジメ」のために始まったんですね。余談ですがPRIDE「1」というナンバリングも、実は「PRIDE」だけだと商標登録の問題で使えなかったからつけたんですよ。ところがその大会開催前にも紆余曲折があって、私は再び「もういいや」と投げやりになってしまうのです。

道場破りでヒクソンに返り討ちにあった安生(1994年12月、米カリフォルニア州サンタモニカ)

戦う前からヒクソンに圧倒されて…

 私の「最後のケジメ」であるヒクソン・グレイシー戦のプロジェクトがスタートしました。

 ところが動きだしてからいろいろあって、実際に戦うまで約2年を要したんです。ヒクソンサイドはOKだったんですが、テレビの地上波とか会場とか、いろんな条件を積み上げていくのは大変な作業で、事態が一転二転三転しました。

 そんな中で私の気持ちが切れてしまった。「これだけ時間がかかるならやめよう。無理してやらなくていい」と、主催者側に伝えました。すると私が書いた「選手個人の契約以外全て任せます」という委任状が出てきた。委任状を持つ主催者から「それなら裁判になる」と言われたんです。

 そこで考えました。ヒクソンか法廷か、どちらの戦いがよりシンプルで楽かと(笑い)。法廷の戦いはきつい。シンプルなのはヒクソンだけど、それもきつい。結論として当然「戦うのはリングしかないか…」となった。気がつけば、消去法のようになっていたんです。「やってやる!」が「やるしかないか…」と消極的なものになっていた。

ヒクソン戦が決まってからは入念なトレーニングを積んだが…

 最終的に1997年10月11日の対戦が決まったのは、3月に入ったころでした。そこからの準備期間は相手の存在にのまれていましたね。それまでやってきたことをすべて変えて、初めて減量したり禁酒したり…。でも根本的に何を変えたらいいか確信がなくて、ムダな準備をしてしまった。

 当時は本当に情報が少なかった。グレイシーといえばホイスで、最初のUFCで自分よりはるかに大きい選手を倒して強さを証明した。その上で「ヒクソンは自分の10倍強い」って言ったんですから、幻想は広がる一方でした。

 トドメになったのは直前にブラジルの柔術家であるセルジオ・ルイスを(練習パートナーに)呼んだことです。ヒクソンと引き分けたことがあるセルジオ相手に最終仕上げでスパーリングをしました。ところがそのセルジオが帰国直前になって「ヒクソンは強い。殴るな。殴った瞬間にタックルに入ってくる」「蹴るな。片足立ちになるとタックルに入ってくる」と言いだした。その後も「組むな」「寝るな」「彼の周りを回っていろ」と続く。要は「対策はない」ってことですよ。

 正直きつかった。試合直前なんだから「お前ならいける。パンチをブン回せばいける」と勘違いさせてくれればよかったのに…。呼んだ私が悪かった。委任状といいセルジオといい、なかなかうまくいかないですよ、世の中は(笑い)。

 そういう経緯もあって、リングに上がった時には戦う前からヒクソンに圧倒された状態になっていました。

戦う前からヒクソン(右)に圧倒された状態だったという高田氏(1997年10月、東京ドーム)

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たかだ・のぶひこ 1962年4月12日、神奈川・横浜市出身。80年に新日本プロレスに入門。81年5月の保永昇男戦でデビュー。84年に新団体UWFに移籍。第2次UWFを経て、91年にUWFインターを設立し「最強」の称号を得る。新日本プロレスとの対抗戦は日本中を熱狂させた。解散後はPRIDEに戦場を移し、ヒクソン・グレイシーら強豪と激闘を展開。98年に高田道場設立。2002年11月24日の「PRIDE・23」(東京ドーム)の田村潔司戦を最後に現役を退く。引退後はPRIDE統括本部長に就任してタレントとしても活躍。夫人はタレントの向井亜紀。

※この連載は2016年11月22日から12月29日まで全22回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全11回でお届けする予定です。


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