第1次UWF→第2次UWF→UWFインター…潰れた原因はすべて人間関係【高田延彦連載#6】
新日本を離れユニバーサル、そして新生UWFへ
ダイナマイト・キッドとのタイトルマッチも決まっていた1984年6月。当時22歳の私は、猪木さんに認められ始めたことを実感しながら、新日本プロレスを飛び出してユニバーサル・プロレス(第1次UWF)に移籍しました。
最大の理由は、体をぶつけ合って私を磨いてくれた先輩に「ユニバーサルに行こう」と誘われたからです。猪木さんや山本小鉄さんも大きな存在ではあるけど、やっぱり実際に手を差し伸べて厳しく磨いてくれた先輩がいなくなってしまうのは耐えられなかった。
そのころの私にとっては「強くなりたい」という思いがすべてでした。だからその先輩から「行くぞ」と言われれば…。引っ張られたというか、体をぶつけ合って日々を共に過ごしてきた者同士の思いというものに、最後は「負けた」感じでした。
シンプルに言えば「兄貴分が行くから俺も行く」ということ。ただ猪木さんがレスラーとして私を認め始めてくれた空気は伝わっていたし、半人前から一人前に足を踏み込みつつある私を視界に入れてくれているということは分かっていた。ですから苦渋の決断でした。
そこから私はユニバーサル、新生(第2次UWF)、UWFインターと歩んでいくわけです。今思えば、よくまあコロコロ変わったもんです。それも全部潰れるんですから(苦笑い)。しかも五輪と同じか、それよりも早いペースで。先に言ってしまえば、すべて原因は人間関係なんですよ。
ユニバーサルの時は移籍から1年でもう給料が出なくなりました。年末に家の冷蔵庫を開けたら6Pチーズしか入ってなくて…。「なんでこうなっちゃったんだろう?」と悲しくなったのをよく覚えています。だから会社としても何かアクションを起こすしかなかった。その最終手段として始まったのが、新日本との対抗戦(86年)です。
しかしその対抗戦もしばらくすると様相が変わってきた。新日本がユニバーサルの選手を一本釣りし始めたんです。確かにそのほうが新日本としても選手を扱いやすいし合理的ですからね。
それを拒絶した選手でできたのが、新生UWFです。「対抗戦は『会社対会社』であって、吸収されてはいない」という信念が、我々の気持ちの部分での「とりで」だった。そこで、同じ思いを持った6人で「何ができるか分からないけれど、ダメでもいいからやってみよう」と立ち上げたのが新生UWFです。それは88年春のことでした。
新日本との対抗戦で手にした宝物
ユニバーサル・プロレス(第1次UWF)が行き詰まり、1988年に私を含めた6人で「何ができるか分からないけど、ダメでもいいからやってみよう」という思いで立ち上げたのが新生(第2次)UWFでした。
しかしこちらも人間関係が原因で分裂。3団体に分かれて、91年に作ったのがUインター(UWFインターナショナル)です。最初は狛江のファミリーレストランが事務所代わりでね。社長は多数決で、私が引き受けました。
Uインターはもう一度原点回帰して「プロレスは面白い」「でも最強だ」という両輪のコンセプトがあった。ただそれも長くは続かなかった。やがて経営が立ち行かなくなり、またもや人間関係でいろいろあって「なんか面倒くせえなあ」と思い始めたんです。それで誰にも告げず、95年6月の両国国技館大会で「近い将来引退します」と宣言した。半ば投げやりな気持ちでした。
ただ、すぐに辞めるわけにもいかなかった。会社には負債もありましたから、代表の私はそれを何とかしないといけなかった。そこにたまたま再び来たのが新日本との対抗戦の話でした。
当時はいろいろ言われました。特に95年10月9日の武藤敬司戦(東京ドーム)は足4の字固めで負けたため「今まで何のためにやってきたのか」「なんで4の字なんだ」って…。でも背に腹は代えられなかった。
手にした宝物もありました。特にうれしかったのは天龍(源一郎)さんと2回シングルマッチ(96年9月、12月)ができたことです。天龍さんとは、一度はやりたかったから。しかも東スポさんのプロレス大賞で年間最高試合にも選んでもらえました。
新日本と対抗戦をやることによって若い選手の顔と名前も売れ、私としての義務作業も落ち着き始めたころに、気持ちは戻るわけです。「さあ、辞める時だ」と。
ただ、同時に引っかかるものもあった。中学2年生の時、横浜文体でパンフレットを手にして進路を決めた瞬間の自分に対して「このまま辞めたらあまりにもみじめだし、かわいそうすぎる」と思ったんです。プロレスが大好きで、脇目も振らずトレーニングしていたあの時の自分にもし会うことができるなら「入ってよかったよ。最高だったよ」という終わり方をしたかった。しなければ、あの時の自分に申し訳ないと思った。プロレスを嫌いになって辞めたくはなかった。
そこで「じゃあどうすれば、あの時の自分に胸を張って辞められるのか?」と考えた時、答えはひとつしかなかった。もう一度、脇目も振らずに目標へ向かって進んでいくこと。戦うしかなかった。そんな時、私の前に現れたのが、現RIZIN実行委員長の榊原信行氏でした。
※この連載は2016年11月22日から12月29日まで全22回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全11回でお届けする予定です。