早大大学院進学もへそ曲がりはへそ曲がりだった【ケンドー・カシン評伝#5】
カシン対カート・アングルは「プロレスの教科書」だ!
師匠・アントニオ猪木氏率いるIGFは2007年6月29日、両国国技館で旗揚げ戦を行った。メインのカードは、〝ビースト〟ことブロック・レスナー対〝世界一のプロレスラー〟カート・アングルという今では考えられないWWE王者対決だった。しかし旗揚げ戦にカシンの姿はなかった。
「まあ、サイモン(ケリー猪木氏)に『MMAで負けているからギャラはダウンです』と言われたのが理由だな」と悪魔仮面は淡々と振り返る。しかし第3回大会(同年12月20日、有明コロシアム)ではIGF初登場を果たす。実にこれが2年2か月ぶりのプロレス復帰戦となった。
来日が不可能となったブッカーTの代役としてカートとの初対決が実現したのだが、オファーは試合前日だったという。それでも試合は好勝負となった。
「なにしろ金メダリストですからね。実際に試合をして、すごさが分かった。組んだ瞬間、その強さが伝わってくるんだ。最近、桜庭和志と練習で組んだ時も同じような強さを感じた。力とかはもちろん違うんだが、プロレスのうまさも違った。攻められた時に相手に身を委ねるといううまさとでもいうのかな」
この言葉は実に深い。最後はカシンがアンクルロックで敗れたものの、この一戦は「プロレスの教科書」的試合として、今でも名勝負として語り継がれている。
翌年8月15日両国国技館では、WWE殿堂入りも果たしたロブ・ヴァン・ダム、デスマッチ王のネクロ・ブッチャーとの3WAYというとんでもない戦いが実現した(ヴァン・ダムが勝利)。どんな状況でも、いつオファーがきても誰とでもどんなルールでも戦えるのが、カシンの強みであることは間違いない。とはいえ、この年も前年も1試合のみだった。しかも突然フラリと旅に出る。電話連絡こそ取れるものの、とにかくどこに滞在しているのか、絶対に明かすことはなかった。困ったもんだ…。
てっきりIGFを主戦場に他団体にも出場してプロレスに復帰を果たすと思いきや、試合数はいっこうに増えなかった。当時を振り返りカシンは「IGFは07年から17年(の実働期間)で75試合。ところが俺が出たのは半分以下の36試合。イメージではIGFのレギュラーと思われていたかもしれないがとんでもない。今のノアと同様にイレギュラーだったんだ。ああ…」と頭を抱えた。
試合数より東スポに登場する回数が多かったあの時期…
ほとんど試合をしないにもかかわらず、東スポに登場する回数は、毎日試合をしている選手より多かったかもしれない。あまりに多方面に支離滅裂な行動を続け、書かざるを得ない面白い話題を提供してくれたからだ。
例えば08年10月、カシンは無職状態が続いていた〝借金王〟安田忠夫に実家が経営する養豚場(岩手・八幡平市)を職場として紹介した。それですら記事になってしまう。驚くことに安田は1年以上、勤務を続けたが、胃潰瘍を患った後に10年8月、八幡平の大地から姿を消した。
「あんなグータラに仕事を世話した俺がバカだった。胃潰瘍になって養豚場の事務所で倒れた時、うちの兄貴が救急車を呼ばなければ…。そのまま処理場に埋めておけばよかった」と悪魔仮面らしい後悔の念を表した。
さらには新日本プロレスの〝盟友〟永田裕志が地元の千葉・東金で毎年秋に地元で開催する「東金祭り」にもあの手この手で難癖をつけ「営業妨害」と「宣伝活動」を同時に行い続けた。
大学院進学も研究テーマがひどすぎて「このままだと落第です」
極めつきは08年1月、母校である早稲田大学の大学院スポーツ科学研究科修士課程1年制コースに合格したことだ。現役プロレスラーの大学院進学は、故ジャンボ鶴田さん以来の2人目、覆面レスラーとしては初となった。
だが大学院進学は真剣なもので、試合数が少なくなったのも、大学院入学の準備を優先したからにほかならなかった。
「深い理由はない。ただ単に勉強したかっただけ。それともうひとつ上の学歴が欲しかったからだ。でもその時はまさか学士でなくても修士を持てるとは思いもしなかった」と、素顔は向学心が強く軸と芯がぶれない人間(だと思う)であるカシンらしい理由で大学院に進学を果たす。
しかし4月の晴れの入学式は、保護者として付き添った永田が時間をカン違いして4時間も遅刻したため出席できず…。波乱の大学院生スタートを切った。
5月には覆面をかぶって教授陣や他のゼミ生を前に研究発表に臨むも、テーマは「中西(学)はなぜバカなのか。身近なバカから見るプロレスの問題点」。これはあんまりだ。ハッキリ言ってひどすぎる。大学院の論文としてはもはや意味不明だ。しかもレスラーの質を向上させるため「WWF(ワセダ・レスリング・フェデレーション)」の設立を訴え、早大キャンパス記念講堂での旗揚げ戦を訴えた。大学院に進んでも、ヘソ曲がりはヘソ曲がりだった…。
当然、師事する平田竹男教授からは「このままだと落第です。プロレス界の将来のためにも、もっと真面目に研究してきなさい」と一喝されてしまった。リングでも教室でも行動パターンは同じだったわけだ。それでも一念発起して軌道を修正。翌春には晴れて卒業を果たし「世界初のプロレス経営コンサルタント」への転身を宣言した。卒業後は突然ロシアへと旅立つなど、消息不明を繰り返した。
総合ラストマッチは愛弟子・柴田勝頼と〝涙の一戦〟
「しかし年に1回しか試合していないのによく生活できていたな…」と悪魔仮面は振り返るが、リングから遠ざかっていたカシンに再びスポットライトが浴びせられた。約1年2か月ぶりの試合、しかも約2年10か月ぶりの総合格闘技戦が決定したのだ。決戦の舞台は「DREAM」09年10月25日大阪城ホール大会。リングは金網、しかも相手はかつての愛弟子・柴田勝頼だった。とはいえこの試合もオファーはわずか1週間前だったという。
柴田は父親が、新日本の柴田勝久レフェリーだったため、三重・桑名工業高レスリング部時代からカシンや永田のコーチを受けていた。父親の柴田レフェリーは後に「カシンと永田に教わってから一気に強くなった」と証言している。
新日本入門後もカシンに心酔した柴田は「プロレスに入るキッカケになった人。恩返ししたい。金網? 金網デスマッチみたいでワクワクする」と闘志をのぞかせた。一方のカシンは「柴田はレフェリーに父親を連れてこい」「負けたほうがペナルティーとして永田君の青義軍入りだ」などと悪態をつきまくった。
そしてゴング。4分過ぎ、パンチの打ち合いから柴田の左フックがカウンターでアゴを捕らえると、崩れ落ちたところへパウンド7連打。1R4分52秒、レフェリーが試合を止めた。カシンは笑顔で柴田を祝福し、一方の柴田は感極まって号泣した。もっともカシンは試合後、覆面姿に戻ると「柴田君がこれだけ頑張っているのに、師匠の船木誠勝は全日本プロレスに上がっている場合か? 俺の大みそか出場? あるわけがないだろ!」と悪態をついていたが…。
「柴田君は入門した時から〝当て感〟が強かった。試合前の練習でグローブを着けてスパーリングをやると、いいところにスーッとパンチが入ってくる。あれは天性のものでしょう。結果についてはまあ、いまさら言うこともない」とカシンは振り返った。結果的にはこの試合を最後に総合格闘技を撤退することになる。
しかし運命は分からない。柴田はその後、12年9月に新日本プロレスに復帰して活躍を続けるも、17年4月9日両国国技館でオカダ・カズチカのIWGPヘビー級王座に挑戦するも、試合後に急性硬膜下血腫と診断され、手術を受ける。その後は長期欠場を続けてロス道場のコーチを務めながら、復帰を目指していた。
そして21年10月21日日本武道館のG1クライマックス決勝戦。柴田は約4年半ぶりにサプライズ登場し、ザック・セイバーJr.とグラップリングルールで5分間のエキシビションマッチを行い、場内を歓喜させた。柴田は「ザック、ありがとう。次、このリングに立つときはコスチュームで。以上!」と事実上の復帰宣言を放ち、ファンから大歓声を浴びた。
まさに奇跡的かつ感動的なサプライズ復帰だったが、師匠であるカシンはこう語る。
「柴田君、まずはおめでとう。しかしエキシビションマッチとはいえ、なぜ俺が相手じゃないんだ。次、本格的な復帰戦をするときは俺が相手だ!」
二度と接点はないと思われた師匠と弟子が、十数年の時を経てリング上で再会すれば、これ以上の劇的な展開はない。もっとも新日本プロレスがどう受け止めるかは疑問だが、ひとつの〝夢〟が芽生えたのは間違いないだろう。
……と感動的な話はここまでで、総合格闘技から撤退したカシンは、再びプロレス界の問題児に戻り、再び業界を縦横無尽に暴れ回るようになる。