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各団体にノーアポで乱入行為を働くが、どこ吹く風「悪意はございません、ハイ」【ケンドー・カシン評伝#6】


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日本全国の山中に練習用の秘密基地を所有している悪魔仮面

 約2年10か月ぶりの総合格闘技戦(09年10月25日、大阪)で愛弟子の柴田勝頼に敗れた後、カシンはペナルティーとして永田裕志率いる青義軍入りを宣言するも、またもや行方をくらましてしまう。

左から平澤光秀、永田裕志、スーパー・ストロング・マシン、井上亘(09年11月)

 翌年2月になるとようやく連絡が取れるようになったが、それでも「場所は絶対に言えない。今、山小屋で暮らしながら薪割りのトレーニングをしている。一流のボクサーは薪を割って体を鍛えるため、木の枝を伐採して、おので切って小さい束にまとめるんだ。理由? 薪ストーブで暖をとるために決まっているだろう。問題は試合のオファーが全然ないから収入がまったくないことだが…」と相変わらずとりつくしまもなかった。

カシン提供の薪割り写真(10年2月)

 後になって判明するのだが、この時カシンは宮城県内の山奥に小屋を借りてトレーニング漬けの日々を送っていた。この〝秘密基地〟は現在も存在して、青森から来て山ごもり特訓は続けている。

実はカシンは「死ね死ね団」のごとく、日本全国の山中に練習用の秘密基地を所有している。

 トレーニング中には林野庁の職員に山中居住者とカン違いされ「アルバイトしませんか?」と声をかけられ、害虫被害を受けて伐採された松の木を集積して、くん製剤を入れて覆うための大量のビニールシートを山中のあちこちに運ぶ仕事を頼まれたという。

「地図1枚持たされて、その場所まで車と徒歩で運ぶんだが、あれはつらかったし重かった…」。ちなみに日当は5000~6000円だったらしい。

本田多聞とタッグを組んだカシン(10年9月)

 そうこうしているうちにIGFから試合出場の要請があり、10年9月25日の東京・JCBホール(現東京ドームシティホール)大会で、ようやく約2年ぶりのプロレス試合が決定。本田多聞と組んでボブ・サップ、ボビー・ラシュリーの超異色コンビと対決し、何と一瞬のエビ固めでサップから3カウントを奪った。IGF12月3日両国国技館大会でも、元WWE戦士のカリートを撃破。ようやくIGFを主戦場に、ヘソ曲がり男がプロレスに本腰を入れたかのように見えた。

山小屋で東日本大震災に被災、音信不通に…

 しかし11年3月11日、東日本大震災が起きるやすべてが一変する。東北地方を襲った未曽有の大災害の余波はカシンにも及んだ。震災発生時は先述した宮城県内の山小屋でトレーニング中だった。安否を気遣った兄の直士さん、親友・永田裕志やIGFサイモン猪木取締役、本紙記者もケータイに連絡を入れ続けたが、たまに着信音が鳴るのみで、一切の連絡は途絶え、音信不通となってしまった。

 ようやく電話連絡が取れたのが、震災発生後から6日後の3月17日だった。

「短パン1枚でトレーニングしていたら天地がひっくり返るような揺れで驚いた。あんな揺れは小学生の時(1978年の宮城県沖大地震)で経験して以来だった。山小屋のプロパンガス、買いだめしていた魚や野菜、近くの畑の水道で何とか飢えをしのいだ。しかしケータイが全然つながらなくて心底困った」

震災後、宮城県内のスーパーから品物がなくなった(11年3月、カシン提供)

 当時、カシンは「これは東北のみならず日本の危機だ。残りの人生は東北にささげたい」と語るや「それにしても許せないのは、人の名を出して東スポ紙面に出ようとした永田裕志だ。まかり間違って『ニュー・ジャパン・カップ』で優勝したら賞金全額を被災地に寄付しろ」と毒づくことも忘れなかった。

 震災から2週間が経過した3月25日、交通機関は復旧しないままで、あちこちで混乱が生じていたもののカシンは山小屋で何とか自給自足の生活を続けていた。当時真剣に災害の深刻さを本紙に写メと同時にリポートしてくれたので再録してみよう。

11年3月26日付紙面

 ――宮城県内は
 カシン 自給自足の生活は変わらない。先日、スーパーをのぞいたら食料が完全に品切れ状態だった。米やカップ麺は市場から消えている。ただ野菜や冷凍の魚類は出回っている。これからどうなるかは分からない。ガスはまだ開通してない。
 ――深刻なのは
 カシン ガソリンだ。スタンド自体が開いていない。だから俺も身動きがまったく取れない。こればかりはどうにもならない。
 ――実家の養鶏場は
 カシン 内陸だから無事だった。それにしても海側の被害は、同じ東北人として言葉もない。
 ――確かに宮城県を中心に未曾有の非常事態です。被災した銀行が強盗に襲われたり、ガソリン泥棒、震災店舗での窃盗など犯罪も起きてます
 カシン 悲しい。そんな連中は許せんが、悪事に走るのはごく一部の人間と信じたい。東北人は本来善良だ。しかし今は「頑張ろう」と言われても、頑張れないのが現状だろうな。それでも何十年かかろうと復興してほしい。俺も何かやれることがあれば、余生をささげるしかない。
 ――…。
 カシン それと報道に問いたい。外国人でも被災した人間はたくさんいる。米国人の女性教師が石巻市で亡くなったらしいが、外国人向けの情報が少なすぎる。それどころじゃないのかもしれないが、家族の安否を気遣う人間がいるのは世界どこでも同じだ。
 ――これからは
 カシン 24日に東北自動車道の規制が解除になった。何とかガソリンを補充して青森に戻って実家の様子を見に行こうと思う。

 しかし石澤家に予想外の事態が起きる。何と長兄の嫁が「息子(つまりカシンの甥)が大学入学で上京を控えてナーバスな状態になっているので、お願いだから帰ってこないでくれ」と実家から帰郷を拒否されたのだ。

「さすがに俺も落ち込んだ。生まれ育った実家の被災状況が心配で夜も眠れないのに、帰ってくるなとは…」と当時を振り返ると悪魔仮面は頭を抱え込んだ。

セミリタイア状態から復帰

相撲特訓するカシンと藤田和之(11年8月、上総一ノ宮)

 やがて夏を迎え、各団体も大会を通常開催するようになると、セミリタイア状態を返上して8月、9月、12月とIGFの大会に参戦する。

IGFでブラック・タイガーと対戦するカシン(11年8月、両国)

「しかし数年間、雌伏期間を経て突然、夏に復帰するなんて本当にセミのようだな…」とカシンは振り返りつつ「こんなに安心で安全かつ善良な人間はいないのに、まるで腫れ物に触るように扱うのはよくない。被災レスラーとしてマット界の風評被害を何とかしたかった」とも当時の心境を明かしている。13年にはコーチからIGFの「プロレス部門指導委託者」に名称が変更となった(14年からはMMA部門コーチに元パンクラスの高橋義生が就任)。

ミット打ちする高橋義生コーチとカシン(14年2月、高円寺)

澤田敦士はスキあらば練習をサボろうとするし、ちょっと厳しく指導すれば、オーバーワークで全員出場が危うくなるし、高円寺の道場の3階にはお化けが住んでるし…。でも高円寺の街はいいところだったな」

澤田敦士にキャメルクラッチするカシン(14年7月、青森)

かつての被告人が10年ぶりに王道マットに復帰も〝かまぼこ〟で断絶…

 IGFで活動するうち14年3月、予想もしなかったオファーが高校の後輩である全日本プロレスのレフェリー、ボンバー斉藤から届いた。何と「世界タッグベルト返還訴訟問題」で大モメにモメた全日本プロレスで、春の祭典「チャンピオン・カーニバル」初出場が決まったのだ。

Cカーニバルへの出場が決まったカシン(14年3月、後楽園)

 カシンについて「もう関わりたくない」と解雇を通告した武藤敬司体制から、全日本は新体制に移行していた。これまではマネジメントを自分で全部こなしていたが、後に個人マネジャーがついたことも活動の幅が広がる要因となった。とはいえかつての被告人が約10年ぶりに王道マットに登場することは、ある意味、大事件だった

「IGFのプロレスとMMAを分ける路線には違和感を感じていた。俺だけではなくS氏(鈴木秀樹)も呼ぶかもしれない。俺はまだ世界タッグのチャンピオンだ。もう一度、腰に巻きたい」と全く反省の色がない表情で参戦理由を語った。一方、全日本サイドも「外国人扱いで参加させろ」というカシンの申し出を受け入れる一方、ギャラをドル建てで払うなど、徹底抗戦した。

 結局、Aブロックにエントリーしたカシンは6人中4位に終わる。もちろんこれで引き下がるようなヘソ曲がり男ではない。16年からは「突然の税務署訪問を受けたため」(カシン談)、総合格闘技活動を再開した盟友の〝野獣〟藤田和之のマネジャーとしてセコンドにつくかたわら、プロレス界を好き勝手に暴れ回るようになり、もはや抑制がきかなくなった。

 16年に藤田、鈴木、将軍岡本らと「はぐれIGF軍団」(後にNOSAWA論外が加入)を結成。同年には全日本で〝犬猿の仲〟とされた秋山とまさかのコンビを組んで暮れの祭典「世界最強タッグ決定リーグ戦」に出場。DDT、大日本などにも出場して各団体を混乱に巻き込んだ。

道場の看板を外す鈴木秀樹、将軍岡本、カシン(16年3月、IGF道場)

 また対極の位置に存在した〝邪道〟大仁田厚とも遺恨が生じ、翌年17年5月には北海道で電流爆破3連戦でも激突している。17年10月31日後楽園では、大仁田厚の7度目の引退試合(6人タッグストリートファイトバンクハウスデスマッチ)で藤田、論外と組んで相手を務めた。これらの活動と並行して、カシンは各団体にノーアポイントで乱入行為を働き、勝手にサイン会を開催するなどメチャクチャな行動に拍車がかかった。

「あの巡業は実に楽しかった。初期のFMWみたいにメンバーが相当しょっぱかったが、北海道を回ってメインで電流爆破戦をやるのは気持ちがよかったな」

大仁田厚を蹴り飛ばすカシン(17年8月、狭山市民交流センター)

 翌年になると全日本18年2月3日横浜大会では、はぐれIGF軍で暴走男・諏訪魔を襲撃。口にかまぼこを突っ込んで、缶チューハイで乾杯する大暴挙を働き、同年3月25日さいたまSA大会の6人タッグ戦を実現させ、勝利を奪っている。ちなみにカシンはいまだに諏訪魔を「かまぼこ」呼ばわりしており、暴走男にとっては何とも迷惑な話である。当たり前だが、これで全日本との縁は完全に途絶えることになる。

カシンからプレゼントされたかまぼこを本紙記者の口にぶち込む諏訪魔(18年3月、後楽園)

 しかし総合格闘技から撤退して約2年の空白を経た後、なぜマット界に戻り、好き勝手にもほどがある行為を働くようになったのか。

「僕はフリーですから、仕事がなくなったらそれでおしまいなんですよ。プロレス界から自然と消えていくしかない。そうなる前に自分が楽しいと思うことをやろうと心に決めただけなんです。悔いのないようにプロレス人生を送ろうとしているだけで、特に悪意は全くございません、ハイ

 その好き放題が他団体にとって悩みのタネなのだが…。しかし早大大学院で修士の称号まで取った探求心の強い男が、何も考えないままに日々を過ごすわけがない。カシンはプロレス活動と並行して、マット界を飛び越えるような行動を実現に移していった。

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けんどー・かしん 1968年8月5日生まれ、青森県南津軽郡常盤村出身。91年、早大人間科学部卒業後、新日本プロレスのレスリング部門「闘魂クラブ」に入団、94年、正式に新日本プロレス入団。96年の欧州遠征でマスクマンに。PRIDEや全日本プロレスでも活躍。獲得タイトルはIWGPジュニアヘビー、世界ジュニアヘビーなど多数。181センチ、87キロ。


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