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池山→岩村→青木→山田!ミスタースワローズの象徴、背番号「1」を引き継いで…【岩村明憲連載#3】

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背番号1

勝ち気で奪ったプロ3年目のレギュラー

 プロ1年目、高卒新人の僕は球拾いと試合ではバットボーイを務めるなど、地味な日々を送っていました。

 そんな僕に絶好のアピールの機会が訪れたのは、4月の終わりごろ、追浜で行われた横浜との二軍戦でした。終盤、2―3で1点を追う展開で相手投手は右の横山道哉さん。ランナー一塁の場面で、告げられたのは僕の名前でした。

 そこまで試合に出る機会がなかったので先輩が打席に向かうんだろうと思っていたんですが、思いがけず名前を呼ばれて「よっしゃ!」と気合が入りました。

 見事センターバックスクリーンに逆転2ランを放ち、これが決勝打となりました。ファームで初の本塁打となり、首脳陣へのいいアピールにもなりました。

 ここから試合に出させてもらうようになって、1年目はファームで3割1分6厘、10本塁打、38打点の成績を残しました。

 入団当初はファームのある戸田の人工芝に慣れず、打撃練習もさせてもらえずとこのまま下積みが続くのかなと悩んだ時期もありましたが、終わってみれば順調な滑り出しとなりました。

 高卒新人で怖いもの知らずだったところも良かったのかもしれません。大卒新人だと、もう少し周りも見えてくるだけに、逆にこうしたほうがいいかなとか考えてしまう場面もあったかもしれませんが、高卒新人の僕の場合には考える余裕もありませんでした。

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新人のころは悩む日々もあったが、勝ち気でレギュラー奪取した(96年の入団会見=2列目右が岩村)

 その後、プロ3年目でレギュラーとなりますがまずは〝勝ち気〟が大きく作用した気がします。入団時の経緯からしてヒザが弱いと見られていたところを、下馬評を覆したいと懸命に練習に励んだところ、成績に結びつきました。

 何でも一番になりたいと思っていましたし、幸いなことにチームには古田さんや池山さんといった偉大な先輩方がいたことも、良く影響しました。追いつけ追い越せの精神が成長を促してくれたと思います。

 また、レギュラーに定着してからは、いい車に乗って、いい所に住み、おいしいものを食べるべきというポリシーも大事にしていました。

 やはり野球選手は夢を与える存在でありたい。本拠地の神宮球場は都会で地の利もいいため、自転車通勤の選手もいましたが、僕はどんなに近くに住んでいようと車通勤を貫いていました。

 土地を買ったりもしましたね。地元の実家の隣の土地が売りに出ているとのことで、周囲から購入を勧められて。土地代が当時の自分の年俸より高かったため、「オレの給料、超えてるだろ!」とは思いましたが、逆に“もっと稼ごう”と、励みになる部分もありました。

 とにかく岩村という名前を世間に知ってもらいたかった。ある意味、生意気な部分もあったかもしれませんが、そんな僕をかわいがってくれたのは同じポジションの先輩、池山隆寛さんでした。


尊敬すべき人生の〝兄貴〟だった池山さん

 今回はまさに僕にとっては“兄貴”ともいえる池山さんの話をしようと思います。

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岩村がかわいがってもらった池山隆寛は豪快なスイングでファンを魅了した(90年6月、広島)

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