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東スポ1面にされたバット投げつけ事件の真相「バット〝は〟投げつけてない」【岩村明憲連載#1】

 球界でも独自の存在感を放ってきたのが現在、ルートインBCリーグ・福島レッドホープスの球団代表を務める岩村明憲監督(42)。勝負強い打撃スタイルはもちろん、歯に衣着せぬ思い切った発言でも人気を博した。ヤクルト、米メジャーのレイズなどで活躍。レイズではワールドシリーズに進出し、弱小チームを変えた立役者としても注目を集めた。「何苦楚魂」を座右の銘に掲げ、道を切り開いてきた岩村氏が、自身の野球人生を振り返った。

フルさんとの不仲説の真相は…

古田敦也監督と岩村明憲

古田敦也監督と岩村(2006年)

 僕のモットーは、言いたいことは言う。その代わり、結果もしっかり残すことを肝に銘じてやってきました。野球選手として決して大きくない体でここまでやってこられたのは、生来の負けず嫌いに加えて、人に恵まれたこともあったと思います。

 ただ、時には意見を主張するあまり、“やんちゃ”と見られたことも。それでも、ポリシーは曲げられない。今となっては思い出すだけで冷や汗が出てくる出来事も多々ありましたが、当時関わった方々には温かい目で見てもらったと感謝の気持ちしかありません。

 そして記念すべき1回目は、東スポにも大きく取り上げられたフルさん(古田敦也氏)との不仲説の真相からお話ししましょうか。

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「7・25バット投げつけ事件」を報じた2006年9月9日付紙面

 僕が送りバントを命じられ、ふてくされて、古田監督の目の前でバットを投げつけるなど、大暴れしたと報じられた件です。

 あれは古田兼任監督1年目のシーズン。2006年、7月25日に、後半戦開幕となる横浜戦を福島県いわき市で迎えました。

 問題の場面は5回に訪れました。3―0とリードし、迎えたこの回。先頭打者の青木がヒットで出塁し、続くリグスは四球を選び、無死一、二塁の場面で僕に送りバントのサインが命じられたのです。

 当時の僕は2年連続3割30本を達成。チームのクリーンアップを打っているプライドもありました。出された瞬間は「ん!?」と目を疑いました。

 すぐに三塁ベースコーチを務めていた馬場さんに“もう一回!”とサインの確認をお願いしました。…間違いない。

 マジかと驚いたけど、もう、こうなったら決めるしかない。覚悟を決めた僕は三塁線に転がし、三塁を守っていた横浜・村田も慌てたことで結果として、セーフティーバントになりました。

 その後、ラミレスも打って、その回は一挙4得点。リードを広げ、勝利を確実にしました。

 一方、ベンチに戻った僕は気持ちが収まらず、“大暴れ”となるわけですが…。実はここまで怒ったのには、伏線がありました。

コーチ陣の「お前、バント意外とうまいな!」で一気に怒り爆発!

 2006年、後半戦開幕の横浜戦(福島・いわき)。僕が怒ったのは、その試合前のミーティングに理由がありました。

ラロッカ、ラミレス、リグス(左から)のユニット「F・ブラザーズ」(06年)

左からラロッカ、ラミレス、リグスのユニット「Fブラザーズ」(2006年)

 実はリグスラロッカラミレス、僕に対して首脳陣から「お前ら4人も何かしらのサインがあるかもしれないから、サインをしっかり見るように!」と通達を受けていたんです。

 というのも、僕もその中に入れられましたが、当時は、ある程度、その4人はプレーに関して、自身の裁量が認められてました。多少の結果を残していたこともあり、古田監督は個々の自主性を尊重してくれていました。

 君たちは好きにやっていいよと。一方では最低限のチームとしての規律は守ってもらうよということで、後半戦開幕を前にもう一度、確認しておこうとなったのだと理解しました。

 ただフタを開けてみれば、5回無死一塁の場面で、打席に立ったリグスはサインを全く見ようとしませんでした。これには三塁ベースコーチの馬場さんも戸惑っているように見えました。結果四球。その後、迎えた僕の場面では、まさかの送りバントのサインですから、これは納得いきませんでした。

 打席でサインを見た瞬間にムッとしましたが、とにかくバントを成功させてから、言うことは言おうと気持ちを切り替えました。

 しっかりバントを決め、その後、ベンチに戻って“大暴れ”となるのですが、振り返れば、あの場面はリグスに怒ったと同時に、選手への指示を徹底させられない首脳陣の甘さに怒ったんだと思います。

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古田兼任監督には厳しい姿勢を見せつけてもらいたかった

 ベンチに戻ったリグスに対して古田監督なり首脳陣が“お前、サインは見ろと言っただろ!”と注意する場面があれば、僕の対応も少しは変わったかもしれません。

 結果は、リグスに対して注意することもなく、指示を徹底できずになし崩し…。これではチームプレーは成り立ちません。正直、モヤモヤが募りました。周囲にいたコーチ陣の一部から「お前、バント意外とうまいな!」と冷やかされたことなどもあって、一気に頭に血が上りました。

 東スポには古田監督の目の前でバットを投げつけたと書かれましたが、誓って言いますが、バットは投げつけてません

 ただヘルメットはベンチに叩きつけたかな…。監督の目の前でロッカーを蹴ったりもしたかな…。確かに監督にとっては、十分脅威ですし、反発していると感じたでしょうね。

 今振り返れば、若かったと思いますが、そういえば古田さん発案で発足した「Fプロジェクト」でも、“物言い”をつけたことがありました。

反発もしたけど、古田さんの苦労を痛感

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自分が指導する立場になり、古田さんの伝えたかったことがわかるようになった

 2006年、古田兼任監督は地域密着と新たなファンサービスの拡大を目的に「Fプロジェクト」(以下「Fプロ」)を立ち上げました。

 その理念自体には賛同できましたが、納得できないことが1つだけ、ありました。

 それは登場曲の問題。当時僕は矢沢永吉さんの「止まらないHa~Ha」を使用していました。これを打席に向かう時に流してもらい、サビの「Ha~Ha」の部分を球場のファンが口ずさんでくれることで気持ちを高めて打席に向かっていましたが、肝心のその部分を、Fプロの発案で切られてしまいました。

“長い”ってね。でもそれは僕にとっては悔しくてね。「盛り上がるのはそこじゃん!」とせっかくファンの方と続けてきた儀式だっただけに納得いかなくて。結局話し合いの末に、元の長さに戻してもらった経緯がありました。

 また、当時のヤクルトは古田監督が就任1年目で様々な改革を行いました。メジャー式を取り入れ、練習時の短パンOK、練習時間の短縮など。確かにチーム内でも物議を醸し、僕も反乱分子の一人と見られていたのかな。でも周囲の見方ほど僕は反対していませんでした。

 というのも古田さんがメジャー式を取り入れるという意図は伝わってきましたし、そもそも何かを改革するときは叩かれることが多いことは自分の経験上も分かっていました。それでも何かを変えたいと考えたその気持ちが、伝わってきたからです。

マドン監督

岩村とマドン監督(2007年5月、米国フロリダ州)

 後日談ですが、その後レイズのマドン監督に言われたことがあります。
「日本の野球はメジャーの20年前の野球をやってるぞ」ってね。

 練習に関していえば、メジャーでもかつては日本式に長い時間をかけて行っていました。その後、必要な部分だけを求めることでシンプルになっていったと説明を受けて、納得した覚えがあります。

 だから今になって、改めて古田さんがやろうとしていたことは大事だったなと思うんです。

 反発もしましたが、僕も現在ルートインBCリーグ・福島ホープスの選手兼任監督(※取材当時、現在は監督)を務めることで、当時の古田さんの苦労がよく分かるようになりました。まずはチームのこと、さらにプレーヤーとしての自分のパフォーマンスにも気を配らないといけない。本当に大変だったろうなと感じています。

 幸い、知人を通じて、フルさんからは「お前のやることを応援している。見ているからな」とメッセージももらいました。本当にありがたいよね。その気持ちに応えなくてはいけないと思っています。

 次回からは野球をやり始めたきっかけ、幼少期を振り返ります。

古田敦也監督とナイン(06年)

古田敦也監督とナイン(2006年)

宇和島の伝馬船で下半身強化

 野球は兄がやっていた影響で、幼稚園児のころから、自然とボールやバットで野球遊びをしていました。もともとは親父の影響が大きかった。親父は野球をやりたかったらやれというスタンスでした。消防団に勤めていたので2日に1日はいなくて、いない日は自分で練習するようにしていました。

 初めてユニホームを着たのは小学校2年生のときです。それ以外にも水泳などほかのスポーツもしていたけど、いつしか軸は野球になっていました。もともとは右打ちでしたが、当時、伝説の甲子園バックスクリーン3連発があり、バースさん、掛布さん、岡田さんの豪快な打撃には衝撃を受けました。

ホームランを放つ掛布雅之(85年6月、甲子園)

本塁打を放つ掛布雅之があこがれだった(85年6月、甲子園)

 中でも掛布さんに強い憧れを抱くようになり、野球を指導してもらっていた父に左打ちにすることへの許可をもらいました。そこから、左打ちに取り組むようになりました。

 また、よくしていたのは、おふくろが美容室をしていたので、その駐車場で段ボールの切れ端にストライクゾーンを設けて、壁に貼って、ずっと壁当てをしていました。今でいう一人でやるストラックアウトみたいなものかな。

 ちょっと向こうに投げて逆シングルで捕るとか自分一人でもいろいろ工夫してやっていました。逆にそういうのが好きでした。自分でルールを作ったりね。

 壁当てに関しては、プロ入り後に母校の宇和島東高校にOBの橋本将さん平井正史さんが壁当て用のコンクリートの壁を寄贈したことがありました。

宇和島東高校OBの平井正史(左)と橋本将

宇和島東高校は数多くのプロ野球選手を輩出。左から平井正史投手、橋本将捕手

 当時はそんなものをわざわざ贈らなきゃいけないのかなと思いましたが、後から考えるとあのとき、僕がやっていたことは正しかったんだと思うようになりました。

 サッカーするにしろ何にしろ、ボールを扱うのは人がいないとできないものだし、その点では壁というのは絶好の練習相手でした。

 また小さいころ、自然にしていたことで後々に役立ったのは、「船」でした。故郷の宇和島には伝馬船(てんません)というものがあり、その船を幼少期に兄弟で500円出し合って借りては、よく海に出ていました。

 全長3メートルぐらいの船を、長い櫓(ろ)を使ってこぐんですが、このバランスが難しい! 足腰をしっかり使ってこがないとすぐ水の力に負けそうになるんです。上半身と下半身のバランスも大事だし、こげばこぐほど、下半身強化につながりました。この伝馬船で本当に足腰が鍛えられたと思います。

 今でも地元に帰るとたまに釣りに出るんですが、本当にリラックスできます。愛媛県宇和島出身だからこそ、身についた習慣が後々の自分に役立つことになりました。

次の話へ

いわむら・あきのり 1979年2月9日生まれ。愛媛県宇和島市出身。右投げ左打ち。宇和島東高3年時に全日本選抜で4番を務める。96年ドラフト2位でヤクルトに入団。2001年の日本一に貢献する。04年には44本塁打をマークし、04~06年には3年連続で3割30本を達成した。07年にデビルレイズ(現レイズ)に移籍。08年には主力として、球団初の地区優勝、ワールドシリーズへと導く。その後、パイレーツ、アスレチックスを経て、11年からNPBに復帰。楽天で2年、ヤクルトで2年プレーした後に15年からルートインBCリーグ・福島レッドホープスで選手兼監督を務め、現在は監督と代表を兼務する。座右の銘は「何苦楚魂」。

※この連載は2016年3月8日から4月29日まで全31回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を大幅に追加して全10回でお届けする予定です。

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