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長袖を着ておけば……腕の筋肉の動きで球種を見破られた【野田浩司連載#5】

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野村ヤクルトに〝丸裸〟にされた95年日本シリーズ

 1995年にリーグ優勝し、阪神・淡路大震災の被災者を少しは勇気づけることができましたが、次は野村克也監督率いる日本シリーズが待っていた。9月19日に優勝を決め、消化ゲームをしてシリーズの初戦は10月21日。結構、期間が空いていて、ヤクルト戦の偵察も行きましたよ。

オリックス優勝パレード、沿道のファンに手を振る仰木監督、イチロー、星野伸之(95年11月、神戸市内)

オリックス優勝パレード、沿道のファンに手を振る仰木監督、イチロー、星野伸之(95年11月、神戸市内)

 でも、普段からミーティングをやらなかった仰木彬監督は変わりません。シリーズまでの間、ミーティングをやったのは1度だけですから。1か月近く期間があったのにね。僕が阪神から移籍してきてまだ3年目で、ヤクルトがわかる人間ということで打者の特徴とかをバッテリーミーティングで話しました。ヤクルトは細かい野球でしたから。

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ヤクルト時代の野村監督と古田捕手の師弟コンビ。日本シリーズで〝丸裸〟にされた

 結論から言えば…シリーズは1勝4敗であっという間に終わったわけですけど、はっきり言ってこっちは“丸裸”にされました。長谷川滋利なんかはセットに入る時のクセを見られて三塁コーチがサインを出していたし、僕の場合は腕の筋肉の動きを見られていた。フォークと真っすぐで力の入れ方が違うということなんでしょう。長袖を着なきゃいけなかったですね。

 そこまでやるとは思わなかったですよ。ぶっちぎりの優勝だったし、シーズン中から向こうはデータを集めていたんでしょう。このシリーズはその差で負けたと思う。僕の感覚では…セ・リーグはずっと解析に熱心でしたね。パ・リーグも昔はやっていたかもしれないけど、力と力の勝負を見せつけようとして少なくなってきていた。オリックスはバッテリー間のサインもすごく簡単だったし、セはいかにわからないようにしようか、工夫していましたからね。

 そういう違いが出たわけです。そこまで、という感覚がこっちにはなかった。試合はいずれも接戦だったし、終わった後に、あるコーチに「紙一重やったな」と言われたけど、僕の中ではその辺りの差は大きかったと思いますよ。接戦だからこそ余計に…。僕は第2戦の先発と4戦、5戦とリリーフでも投げたんですけど、セ・リーグの時に捕手の木戸克彦さんが考えてくれたサインを使いました。当時と同じサインだったから、もしかしたら解読されていたのかも…。だからチームとして4戦目から攻撃のサインも変えました。そしたら4戦目は2―1で勝ちました。

日本シリーズ、デッドボールを受けたイチロー(95年10月、GS神戸)

死球を受けたイチロー(95年10月、GS神戸)

 イチローも初戦でブロスに内角をがんがん攻められておかしくなった。テレビで野村監督がいろいろ言っていたし、戦前から心理戦でも上手だったのかもしれない。2戦目に先発した僕も完封ペースだったのに8回に阪神時代に苦手だった土橋(勝征)にタイムリーを打たれて…。昔のイメージは抜けないですね。こっちはシーズン中からデータとかもそんな意識はしていない。実はスコアラーとのミーティングだって…。

5戦目は先発がいなくて当番直訴しようかと思った

 1995年のヤクルトとの日本シリーズは1勝4敗の完敗。イチローも5試合で19打数5安打に封じられました。投手陣はクセを見抜かれ、データ解析を徹底的にやられて負けたようなものです。それに比べてこっちは日本シリーズ用のミーティングは1回だけ。逆に言うとそれだけ僕らは“大人の集団”だったということなんですけど…。

日本シリーズ、凡退するイチロー(95年10月、GS神戸)

凡退するイチロー(95年10月、GS神戸)

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