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今なお語り継がれる「がんばろうKOBE」神戸市民と共に戦った特別な1995年【野田浩司連載#4】

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今年はプロ野球できないと思った

 1995年の1月17日に阪神・淡路大震災が起きました。「今年はオリックスはプロ野球に参戦できないな」と真剣に思いました。携帯電話もないし、みんなの安否がわからない。無事なのかどうか…。僕は当日、神戸の自宅にいました。家はたまたま場所がよかったのか、グラスが落ちたり、少し亀裂が入っただけで、ケガもなかった。

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倒壊した阪神高速道路。野球を続けられないと思った

 とりあえず、その日は水が出ないし、ガスもない。電話もつながらない。火災も怖かったですよ。僕の家は少し高台の戸建てなんですけど、市内に目をやるとあちこちから火の手が上がって煙が見えるんですよね。これはえらいことや、と。電気はわりと早く回復したのでテレビで情報を得ていました。

 でも練習をしないといけないし、余震も怖いから家を離れた方がいいんじゃないかと。投手の後輩の金田政彦が僕の家に避難してきていたんです。いろいろ相談して翌日朝に車2台で連なって九州に行ったんです。金田は実家が北九州。朝出発して、夜に僕の地元の熊本に着きました。それから不安を抱えたまま自主トレ。といっても近くの公園で走ったり、壁にボールを当てたり、嫁さんの弟とキャッチボールしたり…。

 しばらくして一度、神戸に帰っていろいろと連絡を取って状況を確認しました。球団の関係者もとりあえずみんなが無事ということでした。各自2月1日に来れる人は来ればいい、キャンプの第1クールが自主トレみたいなもんだから、そのつもりで来てくれ、ということでした。そして1月31日にキャンプ地の宮古島に入りました。全員がそろった。2月1日朝、球場で神戸の方角を向いて全員で黙とうをしました。そこから始まったんですよね。

 その時もまだ公式戦が神戸でできるかどうかはわからなかったし、不安を抱えたままですよ。本当なら被災地に行っていろんな手伝いをしたかったけど、野球をやるしかない。でも野球やっている場合か、という気持ちもずっとありました。夢を売る商売といってもね…。

仰木彬監督とナイン(93年10月、神戸サブ球場)

仰木彬監督とナイン(93年10月、神戸サブ球場)

 キャンプが終わって3月に神戸・三宮に行ってびっくりした。「ここがつぶれているのか」という…。被災者のみなさんに「とにかく野球頑張って元気づけてよ」って言われてね。被災されてリュックを背負った人がオープン戦を見に来てくれていたし、シーズンに入っても仮設住宅から来られているような人が多かった。チームが強かったからたくさん球場に来てもらえました。オリックスが復興のシンボルみたいになっていった。

 何か役に立つことをしたくて僕も1三振につき1万円の義援金をさせてもらいました。親を亡くした子供さんのために使ってもらいたくてね。子供さんから実際にお礼の手紙をもらったり…。大変なスタートとなりましたけど、みんなに「絶対にやらなきゃ」という気持ちはありました。そしてシーズンが開幕し…。

仰木監督の「野田、俺を日本一にしてくれよ」に心をくすぐられた

 1995年は阪神・淡路大震災に見舞われ、本当に野球ができるのか?という気持ちで始まった。でも、シーズンに入ってしまえば勝つしかない。スタートはあまりよくなかったけど5月、6月から勢いに乗った。94年もチームはよかったんだけど、そこに新助っ人トロイ・ニールD・Jが加わりました。あいつらが西武戦でよく打った。西武になかなか勝てなかっただけに、西武神話を“崩壊”させたのが大きかったですね。

オリックスのトロイ・ニール(95年)

西武戦でヒットを放つトロイ・ニール(95年)

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今なお語り継がれる「がんばろうKOBE」神戸市民と共に戦った特別な1995年【野田浩司連載#4】

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