〝江夏の21球〟の真っただ中、僕は「打球が飛んできませんように」と祈っていた【高橋慶彦 連載#6】
安打記録が止まったことより深刻だった右膝
試合中のケガで5試合の欠場を余儀なくされた俺は、仕切り直しで8月8日の阪神戦に臨んだ。相手先発は、前年7月からカープ戦5連勝中の江本孟紀さん。記録どうこうより1番打者の務めとして塁に出ることを考えたけど、結果はノーヒット。長池徳士さんの記録を1試合更新しただけで俺の記録への挑戦は終わった。ちなみに、長池さんの記録を32試合で止めたのも江本さんだったらしい。
江本は2つの日本記録の前に大きく立ちはだかった
この後ぐらいからカープの快進撃が始まった。8月13日のヤクルト戦から同21日の中日戦まで引き分けを挟んで6連勝。同27日の巨人戦から9月9日の阪神戦まで引き分けを挟んで9連勝。4年ぶりのリーグ優勝に向けて、頭一つ抜け出した。
ただ、俺には不安が付きまとっていた。連続試合安打の最後に痛めた左足とは逆の右膝だ。もちろん口外することはなかったし、チーム内でも詳しい状態を知っていたのは古葉竹識監督とトレーナーだけだったけど、実際は試合に出られるようなコンディションではなかった。っていうより、医者から「無理だ」とも言われていた。
正確に言うと、その前の年からなんだけどね。右膝は半月板損傷と側副靱帯損傷、後十字靱帯損傷で、意識して膝をはめないと起き上がることも立ち上がることもできない。それこそ、掛け布団の重さで膝が外れることさえあった。シーズン中も、週に1回は膝にたまった水と血を80cc抜いていた。
試合に出る時は膝が抜けないようにテーピングでぐるぐる巻きにするんだけど、今みたいにアンダーラップなんてない時代だから、テープをじか巻きするしかなくてね。夏場なんかは、摩擦でかぶれを通り越して膝裏がケロイド状になるんだ。それを剥がす時の痛さときたら。正直、膝の痛さよりもそっちの方が苦痛だったほどだよ。
キャンプ歓迎会、前列右端が山本一義、右から2番目が阿南準郎、左端が古葉監督(79年2月、宮崎県日南市)
医者から「とてもじゃないけど、試合に出られるような状態じゃない」と言われたことで、吹っ切れたところもあった。「だったら、壊れてもいいからやろう」と。もともと俺は1年でクビになってもおかしくない選手だったし、古葉監督や山本一義さんをはじめとした周囲のサポートがあって、レギュラーをつかむまでに成長できたわけだし。あとは繰り返しになっちゃうけど、山本浩二さんや衣笠祥雄さんといった偉大な先輩たちの背中を見て「レギュラーのあるべき姿」を学んだことも大きかった。
偉大な先輩だった山本浩二(左)と衣笠祥雄(76年2月、日南)
そういう意味で言うと今のカープの若い選手たちはかわいそうな面もある。FA制度ができて以降は、伝統を受け継いだ選手が次から次へと出て行ってしまったからね。やはりプロとしての生きざまのようなものは、指導者ではなく現役の先輩から学ぶもの。そういう点でも、俺はいい時代のカープで育ててもらったと思う。
初出場の日本シリーズで平凡なゴロを痛恨のエラー
俺にとっての最初のピークと言える入団5年目にあたる1979年は、55盗塁で初タイトルを獲得した。チームも8月以降の快進撃で、4年ぶりにリーグ制覇。入団1年目の75年にも優勝はしていたけど、この時は一軍出場ゼロだったから、感慨もひとしおだった。
日本シリーズ前に分析する古葉監督ら首脳陣(79年10月、広島市民球場)
初めての日本シリーズは“悲運の将”として知られる西本幸雄さん率いる近鉄が相手だった。この年はパ・リーグの本拠地からスタートすることが決まっていて本来なら藤井寺球場が舞台となるはずだったのに、照明設備の関係とかで当時は南海の本拠地だった大阪球場から開幕した。
自分自身の33試合連続安打や優勝争いを経験したことで大舞台にもずいぶんと慣れていたつもりでいた。でも、日本シリーズっていうのは別物だった。ウソだと思われるかもしれないけど、めちゃくちゃ緊張した。それこそ心臓が口から飛び出すぐらいに。
ヤクルト時代の井本隆(83年5月)
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