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プロ・アマ混成のシドニー五輪代表の中にあったギクシャク【田中幸雄連載#14】

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なぜ自分が?シドニー五輪代表の選出

2020年夏の東京五輪で野球競技が復活する。かつてのチームメートでもある稲葉篤紀監督率いる侍ジャパンは今年のプレミア12で優勝した。大いに期待しているし、とても楽しみだ。私も元日本代表の一人として「五輪」と聞くと、2000年シドニー大会を思い出す。

稲葉篤紀監督と垂れ幕(17年11月、清武SOKKENスタジアム)

 同年の日本ハムは上田利治監督からバトンを引き継いだ大島康徳監督の就任1年目。そうした状況下でシーズン開幕前、野球日本代表メンバーとして私に白羽の矢が立った。

 本来なら喜ぶべきことなのだろうが、正直なところとても当惑した。このころのスタンスは今の時代と違っていたからだ。代表選出は「名誉」なことだが、私の場合、五輪はアマチュアの大会という認識を持っていたからだ。プロ野球選手として大事なのは、レギュラーシーズンに全力を注ぐことだとも思っていた。

 このシドニー五輪からIOCがプロ野球選手の参加を解禁し、日本もプロ・アマ混成チームで臨む方針を固めた。この流れを受けて日本野球機構側もセ・パ両リーグの連盟と議論を重ねたが、人数調整で足並みが揃わないなど始まる前からギクシャクしていた。

片岡篤史(左)と小笠原道大

 それでも日本ハムは当初、五輪に2人を代表として送り出すとの情報が選手間でも飛び交っていた。私が何となく伝え聞いていた候補は主軸の片岡篤史と成長著しい小笠原道大。ところが、いざふたを開けてみると日本ハムからは「田中幸雄」の1人だった。思わず目が点になった。

「何で自分なんだろう」

 今となっては「いい経験だった」と胸を張れるが、選出された当時は自問自答ばかりしていた。そもそも五輪出場には興味がなく、前年のシーズン中盤から固定起用されていた正一塁手を後輩の小笠原に譲り、同年から“元サヤ”の遊撃を任されていた。現役時代から大変お世話になっていた大島監督の期待も痛切に感じていた。

大島康徳監督(00年6月、東京D)

 だからこそ、攻守にわたる全力プレーで恩返ししたい――。五輪選出によってシーズン終盤の9月にチームから長期離脱しなければならず、複雑な思いもあった。

「片岡と小笠原がチームから抜けると痛手になってしまう。だから、自分が代役で選ばれたんじゃないのか」

 真相はシドニー五輪から10年以上たった日本ハムの一軍打撃コーチ時代に知った。教えてくれたのは前触れもなくグラウンドに現れた初老の男性だった。「おう、元気か?」と声をかけてくれたのは元駒沢大学監督の太田誠さん。まったく面識がなかったので「誰なんだろう」と思いながら頭を下げていると、唐突に“シドニーの真実”を聞かされた。
「あの時のオリンピックでお前を選んだのはな、実は俺なんだよ」

駒大監督時代の太田誠さん

 驚きのあまり選考理由の詳細を聞きそびれてしまったが、消去法で選ばれたわけではないと分かって少しホッとした。

満身創痍でぶっつけ本番に挑んだシドニー五輪

 初めてプロの参加が認められた2000年9月のシドニー五輪野球競技に日本はプロ・アマ混成チームで臨んだ。プロから選出されたのは私のほかに西武の松坂大輔やロッテの黒木知宏、近鉄の中村紀洋、オリックスの田口壮、ダイエーの松中信彦ら計8人。アマチュア選手16人の中には中大の阿部慎之助や三菱重工長崎の杉内俊哉、新日鉄君津の渡辺俊介、青学大の石川雅規、JR東日本の赤星憲広、法大の広瀬純ら後にプロ野球で活躍する面々も名を連ねていた。

青学大の石川雅規(上)
三菱重工長崎の杉内俊哉(左下)、JR東日本の赤星憲広

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