寝耳に水だった!札幌への本拠地移転【田中幸雄連載#15】
初めて五輪でメダル逃す屈辱も…一片の後悔もなし
再び“キューバの壁”をぶち破れ――。2000年シドニー五輪準決勝で日本代表は強豪国キューバと対戦することになった。このころはまだインターネットが普及しておらず、日本からシドニーの宿舎に空輸されたスポーツ紙の見出しには冒頭のようなスローガンも記されていた。
キューバには予選リーグで2―6と力負け。それでも日本メディアはプラス要素を必死に見つけてくれた。1997年にスペインで行われたインターコンチネンタルカップの決勝戦、日本はキューバを下し、それまで続いていた相手の連勝記録「151」をストップさせて優勝を飾った。予選リーグは4勝3敗での通過で、チームを率いるのは大田垣耕造監督。確かに共通点は多く、説得力もあった。
監督もその点を意識していたのか、ミーティングではかつてキューバを打ち破ったことについて詳細に話すなど、何とか我々のモチベーションを上げようと必死だった。しかし、結果から先に言うとやはりキューバは強かった。私も含め打線が相手先発コントレラスらを打ち崩せず、投手陣も主砲キンデランに3打点を献上して0―3の零封負け。金メダルへの道はあっけなく断たれ、意気消沈しながらグラウンドを後にするナインにスタンドから「お前ら、これで日本へ帰れると思うなよ!」と罵声が飛んだ。
重すぎる言葉が胸に突き刺さった。今までこんなヤジを飛ばされる経験がなかった私はとても大きな衝撃を覚えた。
「このまま帰国したら、どうなってしまうのだろうか…」
そんな不安を抱えたまま臨んだ翌日の韓国との3位決定戦でも勝利の女神はほほ笑んでくれなかった。先発したエースの西武・松坂大輔が7回まで無失点と力投してくれたが、我々打線は翌年からオリックスでプレーすることになる具台晟を打ち崩せない。3点を追う9回にダイエー・松中信彦の安打から私が適時打を放ち、何とか1点を返すのが精一杯だった。終わってみれば米国やキューバ、韓国といった野球の盛んな国に一度も勝てないまま4位が確定。五輪で初めて野球日本代表がメダルを逃すという屈辱を味わった。
涙を流す選手もいた。私はただぼうぜんとグラウンドで立ち尽くし「これが五輪にすむ魔物なのか…」と心の中でつぶやいた。金メダルを期待され、初めて五輪に臨んだプロ・アマ混成チームでの惨敗。結果はつらく悔しいものだったが、いま振り返っても個人的には一片の後悔もない。なぜなら、そんな極限状態でも全力を出し尽くしたからだ。日の丸を背負い、誰もが経験できない五輪の空気を味わえたことは私の誇りでもある。
生涯ファイターズを決めていた私に衝撃のニュースが…
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