六本木にあった行きつけのラウンジが「犬OK」になった【下柳剛連載#11】
1997年のクリスマスイブに1億円プレーヤーの仲間入り
日本ハムへ移籍して2年目にあたる1997年は、いろんな意味で充実していた。3回にわたって書いたイチローとの対決もそうだし、シーズンを通してしこたま投げたからね。65試合で147イニングってすごいでしょ。しかも先発は1試合だけなんだから。
まだ若かったこともあるけど、我ながらよく投げたと思う。イニングまたぎや3~4イニングのロングリリーフも当たり前だったからね。その年だったか記憶は定かじゃないけど、こんなこともあった。先発は今関勝だったかな。出番があっても中盤以降だろうと踏んでいたオレは、試合開始直後にマンガ本を持ってトイレに入ったんだ。のんびりクソでもしようと思って。そうしたら同じリリーフの高橋憲幸がドア越しに「兄さん、早くブルペンに戻ってきてください」って叫ぶんだ。想定外の早さで先発があっぷあっぷの状態になって、ベンチも慌てていたんだろうね。
オレはすかさず「クソぐらいさせろや!」って言い返したけど、試合は淡々と進んでいるわけでオレの“出待ち”なんてしてくれない。そのときは投球練習なしでマウンドへと上がった。リリーフをやってると、この手の話は大なり小なりあって、ブルペンはいつも戦場のようだった。正確に言えば消防署かな。火を消しに行くんだから。
それでも毎日が楽しかった。苦にも思わなかった。そもそもオレは投げるのが好きだから。その年はマウンドだけじゃなく、契約更改の場でもひそかに“最多登板”の記録を樹立した。確か7回ぐらい保留したんじゃないかな。「あんたは球団職員か」ってぐらい、当時は東京・六本木にあった球団事務所に通いつめた。
球団側の言い分は「前例がないから評価のしようがない」だった。理屈は分からなくもない。普通はリリーフで規定投球回数(当時は135回)クリアしちゃうなんて、ありえないし。だからって「はい、そうですか」と引き下がれるはずもない。オレは「だったら前例のない評価をしてくれたらええだけやないっすか」と徹底抗戦した。
最終的に契約書に判を押したのは12月24日。折り合った金額は、初回提示から1500万円増の1億500万円だった。税金のことを考えたら9900万円の方がいいなんて言う人もいるけど、オレとしては1億円のラインは譲れなかった。「1億円=超一流」というイメージもあったし、憧れもあったから。このときはマジでうれしかった。今でもクリスマスイブを迎えると、サンタクロースが現れた97年の契約更改のことを思い出す。
スキートレーニングで内転筋強化のつもりがリフトで下山
1997年のクリスマスイブに晴れて1億円プレーヤーの仲間入りを果たしたオレは、よく働きよく遊んだ。念のため仕事の話を先にしておくけど、99年までは3年連続で60試合登板をクリア。年俸も順調に上がって、使う額も順調に増えていった。
当時は独身だったし、税金以外のほとんどを遊興費に充てていた。それこそ「六本木に行かなきゃ損」ぐらいの感覚だったから。本当は引退した後のことも考えて少しぐらいは貯金ぐらいしておいた方が良かったんだろうけど、若かりし日のオレはユニホームを脱ぐ日が来ることなんて考えもしなかった。
どれぐらい遊んでいたかがよく分かるエピソードがある。98年からオレの相棒となった、ラブラドルレトリバーのラガーにまつわる話でね。なんと六本木にあった行きつけのラウンジが、いつの日からか「犬OK」になったんだ。普通はありえないでしょ。六本木のオネーチャンの店で。どれだけ通いつめていたんだよって話だよね。そのうち、一人で行ったら「ラガーは?」って心配されちゃったりして。
この手の話ばかりしていると、ただの遊び人だと思われちゃいそうだから、そろそろマジメな話に戻そう。プロ野球選手にとって大事なオフのトレーニングについて。
これはもう、プロ入り当初からいろいろとやった。“変わった場所”という意味での最初は、ダイエー時代にやった沖縄の自衛隊基地内での自主トレ。那覇基地でヘリコプターの整備を担当していたアニキのツテで、宿泊するためのロッジも含めて、施設を自由に使わせてもらった。東京ドーム45個分の広い敷地内にはグラウンドも体育館もプールもあって、トレーニングをするには最高の場所。それに、すぐ近くで銃を持った本物の自衛官が訓練しているから、緊張感もある。同い年で仲の良かった田畑一也、足利豊とともに中身の濃いトレーニングを積むことができた。
日本ハム移籍後で言うと、最初にトライしたのがノルディックスキー。日本のアルペンスキー界の第一人者で、冬季五輪にもカルガリー、アルベールビル、リレハンメルと3大会連続で出場した岡部哲也さんの協力を仰いで下半身、特に内転筋の強化を目的に軽井沢でスキー合宿を行った。
っていうとカッコ良く聞こえるかもしれないけど、雪とは縁の薄い長崎で生まれ育ったオレはスキー初体験。なんとか岡部さんの親身の指導で上れるようにはなったものの、滑って降りるのが怖くてね。仕方ないからリフトで下山。大柄な男が背中を丸めて下りのリフトに揺られている様子は、他のスキー客には異様な光景に見えたと思う。
そして2000年に取り入れたのが、東スポ読者にもなじみのある桜庭和志と一緒にやった格闘トレーニング。その話は次回に。
※この連載は2014年4月1日から7月4日まで全53回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全26回でお届けする予定です。