まさかの阪神入団、宿敵の巨人戦は「7時までは絶対にマウンドを降りたらあかん」【野田浩司連載#9】
社会人生活1年で廃部が通達された
巨人のスカウトの誘いを断り、僕は社会人の九州産交に進みました。バス会社なんで仕事は運転手の管理です。こっそりバスに乗り込んで運転手の乗務態度をチェックしたり、電話番とか、ワープロで管理したり。野球をやりに行っているから勤務時間は普段が9時から昼12時くらいですね。昼から練習です。
金属バットだし、フォークもまだ大したことないし、よく打たれましたよ。チラホラとスカウトも見に来ていたけど、いつも打たれていたからそのうちソッポ向かれました。マネジャーが「これでドラフトにかかるなんて、あまりにもひどい」って練習試合の防御率のデータを1点くらい“改ざん”しようとしたくらいですよ。
九州産交時代は結果が出なかったが、日本選手権の九州予選で〝急変〟
当時は給料も安くて遊ぶ金もない。これはプロに行くしかないな、と思い始めた。社会人は3年やらないとドラフトの対象にならないから、3年やってプロに行ければ、と。そうした時、九州産交の1年目が終わったオフ、部長がみんなを集めて「廃部が決まった。来年1年で最後だ」って…。ずっと業績が悪かったみたいなんです。ショックで大泣きしました。いい先輩に恵まれてめちゃ楽しかったですからね。それがあと1年で廃部…。
試合で結果が出たのは2年目の日本選手権の九州大会の予選だけでした。なぜかというと、たまたま大会前に先輩に投球フォームでのヒザの使い方をアドバイスしてもらって、それがピタリとはまったんです。別人みたいな投球になった。そこから予選を3連続完投して、準決勝で負けたんです。それがプロにつながっていくんですよ。廃部が決まっているからめちゃめちゃ悔しくてね。
僕は次の野球をやる場所を北九州の日産自動車九州に決めました。日本選手権の予選が終わり、日産さんから「いつでも来ていいよ」と言ってもらっていたんですけど、その日産自動車が日本選手権出場が決まった。だからもう少し熊本に残って移るのを待っていたんです。
ところがある日、ヤクルトの片岡スカウトが来て「君、ドラフトの対象だよ」って言われた。そこから“大逆転”ですよ。野球協約を調べたら、廃部の場合は社会人が1年でも2年でも対象になる。休部ではダメやと。会社に確認したら休部じゃなくて廃部だと。そこからスカウトがまたいっぱい来だして「1位だ、2位だ」とかなって…。予選の3連続完投をみんな見てくれていましたしね。協約をわかっていなかったスカウトも「やっぱりドラフトでいけるらしい」というのがわかって戻ってきたわけです。日産に謝りに行ったら怒られましてねぇ。
ドラフト1位指名を受け会見した長嶋一茂(左)と関根潤三監督(87年11月、立教大学)
熱心だったのはヤクルト、南海。阪神も来ていたとは思うけど、スカウトとは会っていませんでした。ヤクルトが長嶋一茂さんの外れ1位ということだったので僕はヤクルトのつもりでした。それがドラフト当日、まさかの事態になって…。
ドラフト翌日、道路に大きな花輪が…
1987年のドラフト。九州産交の野球部廃部によって高卒での社会人入り2年でドラフト対象となり、僕はヤクルトに行くつもりでいました。ヤクルトは長嶋一茂さんの外れ1位と言ってくれていたし、一茂さんは競合すると思っていましたから。ところが、会社に来ていた数少ない報道陣の1人に「阪神の外れ1位やで」と聞かされて…。本当にそうなっちゃった。
ドラフト1位でまさかの阪神に入団した野田。左は村山実監督
そこから報道陣がわんさか来た。写真撮影では会社と熊本城を3往復させられて、修学旅行の学生たちに胴上げされたり、大変でした。阪神のイメージは…僕は巨人ファンだったんで、巨人のライバル、あと八代第一の遠山奨志が行っているとか。彼は同学年で早くプロに入って活躍していたので見てました。それくらいであまり阪神の印象はなかったですねぇ。
阪神1位指名を受けた野田(87年、九州産交)
ここから先は
¥ 100